「正直者が報われる社会にすべきだ!」、または「正直者がバカを見るのはおかしい!」という主張が度々聞かれます。確かに言っていることはその通りな気はしないでもないです。正直に生きられるなら、その方が良いでしょう。でも、よく考えてみると、正直者がバカを見ない報われる社会にすることで、一体どういうメリットが社会全体にあるのだろう?と。正直者が報われない社会というのは、非正直者が報われる社会ですよね。それじゃ、どうしてダメなのでしょうか?ということを私も考えてみたところ、これといった答えが出ませんでした。さて、正直者が報われる社会にしたところで、それ相応の意味はあるのでしょうか?よくこの手の議論になると、「フリーライダー」の問題が出てきます。フリーライダーは社会にたくさんいるでしょう。でも、フリーライダーってダメなんでしょうか?
フリーライダーというと、かなり否定的な意見を持つ人が多いのかな?と思います。確かにイメージはあまりよくないですよね。あくまでもイメージはね。例えば、法律で明らかに禁止されているフリーライダーはダメだというのは分かるけど、世の中ではそうじゃないフリーライダーも批判されることが多いように思うのです。例えば、分かりやすい例でいうと、フジテレビで「逃走中」というバラエティ番組がたまに放送されています。この中には、ミッションという逃走者にある負担を強いる行為(ハンターに捕まるリスクが高まる行為)をさせて、それが成功すると、ミッションに参加した、していないにかかわらず逃走者全員の賞金がアップする、または増えるはずのハンターが増えないなどの逃走者全員にメリットをもたらすイベントがあります。このミッションへの参加は自由です。しかし、毎回数人は参加するのです。
その場合、参加しなかった人はリスクを負わずに、何らかのメリットを得られるというのが毎回のお決まりの光景です。ただ、逃走者によってはこの行動自体が批判されることがあるのです。はっきり言って、今の逃走中の場合だと、ミッションに参加しない方が明らかに得だと思うのです。それは誰かが絶対にやってくれるから。過去の放送を見る限りは、そう見えます。そういう心理を読むと、ハンターに捕まるリスクを冒さないで、フリーライダーに徹した方が明らかに得策だと思うのです。これは客観的に見てほぼ確実にいえることだと思います。そうなると、逆にあえてミッションに参加する人は愚かというか、戦略的にいうと無意味だと思うのです。番組に出演しているタレントの方々はあえてミッションに参加して、好感度アップを狙っているのかもしれませんけど、そういう人たちも毎回数人いるでしょうから、あえて自分が参加しなくても、誰かはやってくれるのです。そして、高確率でミッションは成功する。参加の可否にかかわらず、全員に同じだけの恩恵が与えられるので、ここではミッションに参加しない人たちの方が絶対に合理的だと思うのです。
毎回、放送中か終了後にはTwitter等で叩かれるタレントの人たちがいるわけです。中にはミッションにわざわざ参加したタレントの人たちが、参加しなかった人たちに「オレらはこいつらのタメわざわざやってたの?」みたいな文句を言っているシーンもあります。要は精神論は抜きにして、どうして客観的により賢明な選択をした人が責められるのだろう?そもそもミッションへの参加は自由です。フリーライダーに徹するか?自ら危険を冒して参加するか?誰もが平等に選択権を持ちます。各自が己の判断から自由に行動した結果に対して、少なくともミッションに参加した人たちが参加していないフリーライダーの人たちに文句を言うのもおかしいし、ルールに則って、より合理的に効率的に動く人たちが一般人からも批判をされるというのは、どうも納得がいきません。本当にこの国の人たちは精神論が好きなのかな?自分のため、他人のためにかかわらず、汗水たらして必死で頑張る人たちが好きなのかな?手書きの履歴書が廃れずに、いまだに残り続けていたり、パソコン印刷は認めずに手書きののみしか受け付けない企業がいまだにあることを考えると、私はこの予想は当たっているんじゃないか?と思います。
Wikipediaの「フリーライダー」のページには以下のことが書かれています。
>実験経済学での日米比較実験によると、日本人はアメリカ人と比べ、自分が損をしてもフリーライドする人の足を引っ張る傾向にある[2]。たとえば、友人と2人でアルバイトを始めるにあたり、店を選ぶ決定権が自分にある場合、自分も友人も10万円もらえる店Aと、自分は9万9千円もらえるが友人は8万円しかもらえない店Bを選ぶとき、約1割の日本人がBを選択する。 この傾向は小学生低学年には見られなかったことから、ある程度年齢を経るにつれ、徐々に得られるものだと思われる。
また日米の大学院生を対象とした同様の実験では[3]、日本の学生はアメリカの学生に比べて、自分の利益をかなり下げてでも、参加をしない相手に損をさせようとする傾向が高いという実験結果となった。そこから得られた示唆として、公共経済に対するフリーライダーのあり方にも、日本では独特の背景があるとしており、「日本の社会ではみんなで仲良く協力してコトにあたっているのではなく、協力しないと後が怖い、というところでしょうか」と結論している。
この日米の比較が本当に妥当なのか?は分からないものの、要は日本人がフリーライダーに対して、より厳しいというのはあるのだと思います。「足を引っ張る」という表現が使われていますけど、それは実社会でもそうですよね。例えば、早く仕事を終えて退社しようとすると、人事考課で評価を下げられたり、同僚に嫌われたりというのはよくある光景です。最後の一文にあるように、フリーライドするような非協力的な人間は排除され、全員が自分だけじゃなく、お互いの利益向上のために頑張って行動する。そうした人間しか受け入れられない。非常に1つの価値観に偏った社会が構築されていると思うのです。
フリーライダーになることが法律上も問題なく、かつ現実的に全員がフリーライダーになるとは思えないような状況が揃えば、フリーライダーに徹するのは何らおかしなことじゃないのです。また、先ほどの逃走中の例でいえば、全員が仮にフリーライダーになったら、全員が平等に困る。最悪、そういう事態になっても自分は構わないという人は別にフリーライダーになることは道徳的に考えてもマズイことではないと思うのです。自分が参加しなかったのに、同じく参加しなかった他全員の逃走者を責めるのはおかしいとは思うけど、他人の利益よりも自分の利益をまず確保するのはおかしいことではないと思いますし。この逃走中という番組もそうですけど、世の中には自分のことしか優先しない人もいれば、他人のことも優先して行動してくれる人もいます。でも、他人のことまで考えて行動してくれることが普通ではないはず。それはサービス精神であり、プラスの行動です。逆に自分のことしか優先しない行動はプラマイ0だと思います。
例えば、誰かが暴漢に襲われているとき、それを見た人が助けてくれたら、それはサービス精神でしょう。でも、自分が殴られたら嫌だ!と思って、無視したらそれはいけないことでしょうか?他人のことは顧みずに自分の利益を優先する行動ですが、これはしょうがないと思います。逃走中の例もこれと同じだと思うのです。フリーライダーが嫌われるということは、他人のことまで考えて行動しないといけない、又はそうすべきだ、それが普通だ。と考えている人がとても多い証拠だと思うのです。しかし、本来はその行動は決して普通ではなく、付加価値のついたプラスの行動だと思います。自分のことしか考えない行動がプラマイ0の普通の行動だと思うのです。逆に暴漢に襲われている人を助けることが当たり前の行動であり、それがどんな場面でも半ば強制的に行われた場合、フリーライダーの例でいうと、そんなものいらないよ!オレには必要ないよ!という人までお金や手間を払わされることになり、集団の利益を各個人全員に負わせている構図になると思うのです。
よくフリーライダーの話題では、公共財のことが語られますが、公共財を例に出すと、ある公共財を作ろうとしたときに、その公共財を必要とする需要の多寡というのは、人によって当然異なりますよね。その公共財への必要性の高い人はフリーライダーになりづらく、そうじゃない人はフリーライダーになりやすい、というか、フリーライダーになった方が得ということです。その公共財が確実に必要なら、要は自分がフリーライダーになったら、他全員がフリーライダーになったときには公共財は供給されませんからヤバイですよね。だから、フリーライダーにはなりづらい。でも、その公共財が特別必要ではない。あったら便利だよね。くらいに思っている人はフリーライダーになるリスクが格段に低い。1つの公共財に対して、フリーライダーの数はある意味、その公共財に対する需要の多寡を如実に表していると思うのです。フリーライダーが多くなればなるほど、客観的に見てその公共財に対する必要性が低いということですよね。つまり、フリーライダーを現実的に選べる人というのは、その公共財を特別必要としていない人ですから、フリーライダーを狙う人ばかりになって、お金が集まらなくなり、公共財が作れなくなった。としたら、その公共財はそもそも需要や必要性がなかった。ということで、特別必要もないモノを作らずに済んだ。税金等のコストの無駄を省ける面もあると思うのです。フリーライダーの存在にも一定の社会的意義を見出せると思います。
世の中は、経済の仕組みは、フリーライダーの発生が障害になるケースもありますけど、要は集団の利益と個人の利益が一致しない、乖離が相当程度あるときにはフリーライダーは発生しやすいでしょう。現実的な側面では、公共財の供給とフリーライダーの発生というのが、1番ありえそうな例だと思います。公共財は非排除性があるために、その特徴を利用してか?分からないですけど、結果的にコストや手間を負担しない人が利用できる。便益を享受できる。これは公共財の特性上致し方ありません。だからといって市場経済から供給しようとすると、それはそれで問題があるから、公共財として供給しているわけですよね。フリーライダーってのは、個人が選択できる行動範囲の中から最も合理的な行動をしただけのことだと思います。それは特定の公共財に対する必要性が乏しいから。逆にフリーライダーにならない人というのは、特定の公共財に対する必要性が特に高い人たち。要はお金や手間を自分で払って、あえて公共財の供給を確実にするために尽力した方が得だと感じたから。これも個人が選択できる行動範囲の中から最も合理的な行動を選んだに過ぎないと思うのです。この人だってフリーライダーになろうと思えばなれたのに、それをしなかったのはフリーライダーになることのリスクよりも、ならないメリットの方が大きいと感じたからでしょう。
どちらにとっても合理的な行動を選択した結果、どちらにとってもそれなりの便益をもたらしている。それが何か問題でも?と思った次第です。現実的には公共財を作るためのお金については強制的に徴収された税金が使用されたりして、フリーライダーは発生しづらいと思います。また、各自の便益に応じてお金をとる、とらないなんてことは個人的には理想の方法だと思いますけど、そんな手間をかけている余裕はないからこそ、各自の需要の多寡にかかわらず、全員から集めたお金で公共財を作り、後は各自が自由な頻度で、自由に利用してください。とするのが現実的には1番手っ取り早いし、1番効率的なんでしょう。現代で発生するフリーライダーについては、かなりケースが限定されるでしょうし、その多くが個人の利益のみを追求する人を憎み、集団利益に貢献しろと強制してくる人たちから生まれるものなのではないでしょうか?そういう考え方が正しいか?否か?については個人の価値観によるのかもしれませんけど。

フリーライダー あなたの隣のただのり社員 (講談社現代新書)
- 作者: 河合太介,渡部幹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/06/17
- メディア: 新書
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