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「もし世の中から法律がなくなったら?」←多数派による俺ルールが代替するので心配ご無用です

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「法律がなくなったらどうなるのか?」なんてことを考えている人もいるらしい。私に言わせれば、その前提がおかしいというか、法律がなくなる状況がありえないと思ってしまうのです。法律ってなんだ?国が作るルールだな。国が作るルールには法律という特別なレッテルが与えられるが、それ自体を特別視しないといけない理由は特にないと思う。法律もルールに過ぎないのだから。仮に今法律と呼んでいるものがこの世から消えたとしても、ルールに相当するものは残る。そして、国ではなく国民が国民を支配するような状況に代わるだけだろう。政治家と国民という違いはあるが、誰かが支配するという状況に関しても差はない。

 

たいていは国民の多数派によって容認される俺ルールが適用されることになるだろう。その俺ルールはときには野蛮な、残酷な内容を含むことになるかもしれないが、今の法律が野蛮じゃない、残酷じゃないとも言えないので、そこも結局変わらない。今ある法律がなくなったって、その後に社会に存在する支配的な俺ルールを法律と呼んだっていいわけだから、法律という呼び名に固執する理由もない。法律も俺ルールも、支配層が自分たちにとって都合のいい状況を被支配層に強要する行為に他ならない。俺ルールに反する人間には何らかの制裁が与えられる(いじめが行われる)ことになり、そこも今私たちが法律と呼んでいるものと大差ないのだ。結局、状況として何が変わったのか?という感覚になるんじゃないのか?と思う。

 

結局本質的な部分に注目すれば、法律(に相当するもの)はなくなりようがない。この世に生きる人間が数えられるほどに少なくなるような状況になれば、話は別かもしれないけど。また、何度も出しているこの俺ルールという存在は、法律よりも上位という考え方ができる。基本的にこの世に存在するすべての法律に賛同する、納得している人はほとんどいないだろう。そのため、ときには自己判断で法律を破る選択をする人間が出てくる。これは決して珍しいケースではないはず。つまり、各自の意識(無意識の場合も含む)において、優先順位としては法律よりも俺ルールの方が上なわけです。法律を守る状況は、ある意味俺ルールに沿っているから問題ないという認識なのです。俺ルールに沿う法律に関しては、俺ルールという基準に照らして問題ないので守っているのであれば、法律だからこそ守るという状況ではなくなっているわけです。

 

マナーという言葉が1番分かりやすい。法律で許容されている行為がマナー違反というレッテルを貼られ、非難される光景は日本ではお馴染み過ぎて見飽きたと言っていいレベルだが、これはまさに俺ルールが法律を凌駕している代表的なシーンだろう。法律という基準よりも、俺ルールを優先しないと、マナーという概念は成立しない。というか、正当性を見出しようがない。法律よりも社会の多数派が正しいと感じている価値観の方が、正しいと思っている人が多いんじゃないですか?みんな自分の感覚こそが正義だと、真っ当だと信じているのでしょう。他人の感覚よりも自分の感覚の方が正しいと、それは自分の感覚を信じる=自分の都合を常に優先できるからに他ならない。

 

そして、この俺ルールが消える状況もありえない。というのも、俺ルール自体は法律と同じで、多数派にとって都合のいい状況の強要だが、仮にAという俺ルールが社会の多くの人たちに受け入れられなくなったとしても、今度はAという俺ルールをやめろ!という俺ルールが支配的になるだけだ。Aがあった方が都合がよかった状況が、今度はAがなくなった方が都合がいい状況に変わるだけ。社会は常に多数派にとって都合のいい状況が優先される。Aに代わってBの俺ルールが生まれるというだけであり、この状況は延々と続くだろう。これは私たちが法律と呼んでいるもの同様で、新しい法律ができたり、廃止されたり、改正されたり、そういう歴史を重ねている中で、どの都合を社会が優先するか?という本質的な部分は一切変わらないのです。法律も俺ルールもマナーも呼び方を変えただけで、概念としてはほぼ変わらない。支配層が被支配層に強要する都合のいい決まり事であり、これは世の中がどうなっても存在し続けるだろう。

 

そういう意味では法律がなくなったとしても(自分たちに有利な俺ルールを適用できる多数派にとっては)構わないってことだ。私たちが法律と呼んでいるものが消えても、法律と変わらないものは存在し続けるから。私刑とか、自警団とか、自粛警察なんかが今以上に蔓延ることになるんじゃないかな?法律と称される存在があっても、なくても、社会の多数派にとって都合のいい状況こそが歓迎され、それがルール化していく。そして、都合がいいときにはそのルールを破る。そういう状況は法律があっても、なくても一緒でしょう。人間が特定のエリア内で集団生活をするような状況が続くならば、この仕組み自体は特に変化しない。そして、特定の層が自分たちの都合を優先するがゆえに、それによって不利益を被る層の出現や彼らが俺ルールを破り、他者に損害をもたらす状況についても今後も変わらないだろう。

 

私は以前から何度も言っているが、平和が理想とは全く思わない。人間(他の動物も同様だけど)は常に争うのが自然であり、平和なんて状況は異常である。そして、その平和という概念は特定の層にとって都合のいい状況の実現という意味に他ならない。平和を実現したいならば、平和を乱す側に譲歩すればいいだけ。そうすれば割と簡単に実現できるが、それをしない理由は自分たちが損したくないから。譲歩するってことは、既得権益などを捨てないといけないわけです。平和を望む人間は、あくまでも今の都合のいい状況を維持し、その状況を壊そうとする側を押さえつけようとする姿勢なわけだ。簡単に言えば、「俺らは得意し続けたいから、お前は損し続けろ。その状況に関して文句を言うな。暴れたりするな」ということ。つまり、平和というのは非常に自己中な概念なんですよ。現状の法律などのルールによって恩恵を受けている、満足できる側が、現状の法律などのルールによって不利益を被っている側を虐げる状況とも言えるだろうか?ただ、私はその自己中が悪いとは一切思いませんがね。人間なんてみんな自己中なのが当たり前なので。そもそもの話をすれば、いいとか、悪いとか、そんな概念にも興味がないけど。

 

現実において、法律を含めたルールがなくなる状況に最も近いシチュエーションってなんだ?と言えば、震災直後だと思う。とはいっても、震度7クラスの地震が来る、または津波が襲ってくるような状況に限定するけど。少なくともその地域においては、ある種ルールのようなものが消えるというか、機能しない光景となるだろう。警察などがまともに働ける状況ではない可能性があるから。よって、世間に明るみにならないような犯罪が横行するかもしれない。特定の地域が大混乱になる、身動きがとれなくなるような状況があれば、それをチャンスと捉える人もいるわけです。私は実際にそういう内容の漫画とかを見てきているので、その想像ができてしまうというか、その想像に至ってしまう面がどうしてもあります。現実において、今後このような可能性が最も高そうなシチュエーション、ガチで世の中が無秩序になりそうな場面というのは、大きな地震でしょう。そのときに人々はどんな形でその地域を治めていくのか?そこはみどころかもしれません。

 

俺ルール!―自閉は急に止まれない

俺ルール!―自閉は急に止まれない

  • 作者:ニキ・リンコ
  • 花風社
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