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現代文は感情論の集大成!役に立たない、やる意味がないどころか害悪な存在である

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学校で習う、受験科目でもある現代文という科目は私は1番嫌いだと思う。現代文は役に立たないという声もありますし、やる意味がないと批判している人もいるようです。過去に私も何度か現代文批判をしてきたのだが、現代文というのは教育として多くの学校で習うことになるし、受験科目にもなっている。私は現代文の解答にほとんど納得したことがない人間なのだが、解答に納得しないというか、正答や誤答を決めてしまうことに納得がいかないのだ。現代文は感情論によって成立する教科だと思っています。言いたいことは以下のガジェット通信の動画で西村博之氏が言っている部分もあるので、それを見てもらいたいと思う。18分過ぎから該当のシーンになる。

 

 

西村氏も現代文が嫌いみたいなんですよ。彼も現代文をやる意味については見出せていないとものと思われます。ここで言っているのは恐らく小説の問題なんでしょう。彼が現代文という科目をおかしいと思っている理由を要約すると、現代文の正解選択肢というのは普通ならばそのように推測されるというものを選んでいるのだが、それ以外の推測がなぜできないのか?が納得いかないらしい。例えば、英語の問題を引き合いに出して、英語は文章自体を日本語にしてしまえば超簡単で、かつ事実の照らし合わせの作業であるから、基本的に私や西村氏が抱えている疑問は抱かない。しかし、現代文は事実を踏まえたうえで解釈が入ってくる。その事実をどのように捉えるのが正しいのか?という部分が関係してくるので、その解釈は人によって違うと、だから納得がいっていないみたいなのだ。私はこの現代文の問題に関して、こういった教育が現代の大人たちのよく分からない行動の礎になっているのではないか?と思えてならないのです。私は現代文は役に立たないとか、そういったことを言いたいのではなく、むしろ現代文って害悪だと思っているのです。現代文は本当になんのために勉強させているのか?全く理解ができません。

 

現代文をやる意味は私は到底理解ができないが、私は現代文って科目を真面目に学んでいるがゆえに、結果としてよく分からない大人が増えている気がしてなりません。それはどういう大人か?っていうと、正解が決まらない部分を断固として正解として主張する大人です。まさにそういう大人って、現代文という教科をそのまま人間の形にしたような状況なのです。具体例を挙げると分かりやすいかもしれない。実際、このブログでも以前書いたことがあるのだが、日大アメフト部のタックル事件に関して「悪質」だという言葉がよく紙面をにぎわせていたと思うが、悪質という言葉は明確な定義はない。だから、日大アメフトの選手や監督が悪質だったのか?という問題に関して、悪質と断じることことが正解か?は誰にでも判断できないのだ。しかし、あの言葉を使っていた人やメディアは相当あったと思う。結局、彼らからしてみれば、日大アメフト部の行為は悪質だと確信していたのではないか?と思うのです。感想ではなく、決めつけに近いと思います。でも、あれが悪質であるという証拠はないんですよね。悪質という言葉をどのように捉えて、どのように適用するか?という問題は、まさに生徒や受験生が学ぶ現代文と同じなのだ。

 

というのも、じゃあ悪質の基準って何?って話なんですよ。悪質って言葉を使っている人間がいるってことは、悪質と言えるケースと言えないケースがある中で、今回は悪質だと言えるケースだと判断したわけでしょう?その境界線はどこにあるの?って質問しても、多分まともな返答はないですよ。例えば、違法って言えるためには法律という基準が存在し、その基準を逸脱しているから違法って言えるわけです。悪質の基準って何?という質問に回答するとしたら、まともな返答があるとは思えないけど、仮に返答がきたとしても、恐らく人によって言っていることは違うと思いますよ。法律は1つしか存在しないので、知識がある人ならば法律という基準は明確に1つに定まるが、悪質の基準は1つには定まりません。これは絶対に。現代文もそういう側面があって、動画内で古川健介氏が「文章から推測できるものの中から考える」というセリフを西村氏に言っているシーンがあるのだが、これがまさにそうなのよ。

 

推測できる、できないの境界線はどこにあるの?という話なんですよ。そして、それはどうやって決まるの?この文章から推測できるのはどこまでか?っていうのは、各自で考えがあると思うけど、間違いなく一致しない。だって、この文章から、この選択肢は推測できますか?って言われて、推測できるって人とできないって人に分かれると思うんですけど、彼らは何を基準にして、推測できる、できないを判断したのか?と言えば、各人の感覚ですよね?で、感覚って、法律みたいに1つに定まっているわけじゃないんですよ。各人の匙加減なんですよ。西村氏みたいにおじいちゃんのことを思い出すかもしれないっていうのも、西村氏は推測できると思っているわけですよ。でも、多分ひげおやじ氏や古川氏はそれは推測できないと思っているわけです。ここで、ひげおやじ氏や古川氏に、あなたたちが推測できる、できないの基準として持っているものは何?と聞いて、即答できない(ちょっと考えないと出てこない)としたら、推測できる、できない分かれ目となる基準をあらかじめ頭の中に持っていないのに、その判断をしたってことなんですよ。あれ?おかしくね?って話なんです。分かりやすく言えば、法律の知識が全くない人が、これは違法だよという判断をしているのと同じなんです。

 

これは悪質という言葉についても同じだ。日大タックル事件を見て、「あれは悪質だ」と言っている人間に対して、あなたにとって悪質と言える、言えないの基準は何ですか?と聞いて、すぐ返答が来なかったら、この人はそういった確固たる基準が頭の中に存在していないのに、悪質だという判断をしたということになる。基準があるから、それに当てはまっているか?逸れているか?で、悪質と言える、言えないの判断ができるはずなのに、その基準がなければ、この人はなぜそんな判断ができたのか?「あっれれー?おかしーぞー?」と、私ならば嫌みっぽく言い放つだろうね。弁護士がこれは違法だって言っていたときに、その弁護士に何で違法って言えるんですか?その基準は?と言えば、すぐに返答があるだろうが、こういう明確な定義がない言葉を判断として使っているような人は、ほぼ100パー即答はできないと思う。いうなれば、この人は自分の感覚で、勘に近い判断で悪質だと罵っていたというのが真実だろう。つまり、この人は思考ってのものをしてないで、そういう結論を出したということになる。悪質という言葉の定義をどのように解釈するか?によって、日大アメフト部の行為が本当に悪質と言えるのか?という結論は異なるが、そもそも解釈するにあたっての基準すら設定していない人間がいるはずで、私はそういう適当なことを言って罵倒する人間の方が悪質だと思ってます。根拠はあるんだろうが、彼らの根拠は恐らく後付けです。あのプレーを見て、悪質だ!という判断を本能的にした後、その理由を考えているような状況じゃないか?と思います。

 

私はちなみに日大の選手がやった行為は悪質とは思ってません。ただ、恐らくこういう意見は少数派だと思うので、多分世間からは正しい意見としては扱ってもらえないだろう。しかし、じゃあ何で悪質ということが正しいのか?逆に悪質じゃないということがなぜ間違いなのか?という問題が残る。悪質だと推測できる根拠は十分にあると思う。でも、それは根拠であって証拠じゃない。私がこう思う理由でしかないのだ。そして、悪質じゃないという根拠も私は挙げられる。もちろん、これは私が悪質じゃないと思う理由でしかないが。なんだかさっきと同じような話になってきましたね。西村氏が言う、正答とされる選択肢以外の推測がなぜできないのか?という質問に明確な根拠なんかないんですよ。だって、現代文の小説の問題では特定の事実から、その事実の際の登場人物の気持ちというのは推測をするしかないのです。つまり、推測をするときに最も確率が高いものを正当選択肢として出題者は用意しているはずです。しかし、それはその出題者の感覚であると。多数決でその感覚に賛同する人間が仮に多くいたとしても、それは賛同者が多くいたというだけの話であり、正解である証拠にはならない。出題者が推測した以外の推測の仕方がなぜ間違いなのか?ということに関して、出題者としてはきちんと理由を説明できるのだろうが、それは出題者自身がそのように推測できない(そのような結論にたどり着かない)理由にしかなっていないのだ。

 

分かりやすく言えば、出題者の解釈は出題者の脳内の思考に沿ったうえでのストレートな解釈でしかない。つまり、普通に考えたらこうなるでしょ?ということを出題者は言いたいはずなのだが、その問題を間違えた人間だって、普通に考えたらこうなりました。という話なのです。で、この場合何で出題者が普通に考えた結論は正しくて、別の人が普通に考えた結論は間違いなの?という説明が必要になるのだが、ここで出てくるのは感情論でしかないはず。その問題を間違えた人も脳内の思考に沿ってストレートに考えたはずで、その結果出た結論は出題者とは異なっていたと。これが現代文の問題で間違いが起きる際の各人の脳内のプロセスになると思います。言ってしまえば、解釈(感覚)が違うというだけであって、感覚というのは正解があるわけじゃないと思うのですよ。1つの事象が起きたときに感情はみんな一緒じゃないと思うんですよ。少なからず違うし、大きな違いになる場合もあります。その感覚を間違いだって否定したがるじゃないですか?日本人って。大きな地震が起きたときに、「地震楽しかった」ってツイートしたら叩かれた人いましたよね。あれも同じことなのです。大きな地震が起きたときに楽しい感覚にならない人となる人がいるんです。あれは正確に言えば、地震そのものじゃなくて、大阪観光が楽しかったという趣旨らしいのだが。でも、あれが叩かれたってことは多くの日本人は人の感覚に関して正解を決めたがるってことなんですよ。人それぞれで良いじゃんって考えがあったら、叩いている人はいなかったはずだと思うのです。

 

で、私は正直言って、それは間違いだと思います。特定の感覚に共感する、しないという問題はあるとしても、感覚に正しいも、間違いもない。だって、説明ができない。それこそ現代文にありがちな「普通の感覚だったら、大きな地震が起きたときに楽しめる奴なんかいない」みたいな感情論しか返ってこないと思いますよ。結局、感情論しか言えない人間を大量に排出するわけです。現代文は役に立たないとか、その次元じゃなくて相当な害悪だと思います。普通ってなんだ?多数ってことか?多数が常に正しいのか?その証拠は?という反論が容易なわけです。私は別にあのツイートに共感したわけじゃないけど、叩く気はさらさらないです。感覚は人それぞれだと思っていますからね。で、こういう特定の感覚を肯定し、それと相反する感覚を否定する人間の根底は現代文の教育があるんですよ。だから、私は現代文は役に立たないところではなく、害悪な存在だと思っているのです。私は元々嫌いですけど、この仕組みを発見して余計に現代文をやる意味が理解できないのです。現代文って言ってしまえば、感情論の集大成のような教科だと思っています。現代文はなんのためにやるのか?分からない人もいると思います。私も受験生の頃には現代文をやる意味は皆無だと思っていました。人生において役に立たないと当時から思っていました。そう思ってたので、ほとんど勉強してません。勉強を真面目にしていたら、今頃は人の感覚について善悪を判断するような人間になってしまっていたかもしれません。そうならなかったのは、現代文をやる意味を理解できず、捨てたからかもしれないです。現代文はいらないと大人になってから確信しますよ。

 

現代文は多数派の感覚を肯定し、少数派の感覚を排除する科目ですが、それって結局日本をどんどん没落させる方向に動いていますよね。なぜならば、結局多数派の感覚っていうのは、別の言い方をすれば「普通の感覚」のわけです。普通の感覚を持っている人間って五万といるわけですね。だから、多数派になるわけですが。それはさらに別の言い方をすれば、代わりがいくらでもいるわけですよね。要は常人の感覚しか持っていない人間っていうのは、常人の感覚の中でしか生きられないので、イノベーションを生む存在にはなりえません。そして、代わりがいくらでもいる時点で、その人じゃないといけない理由がないので、存在価値は0に近いです。しかし、少数派の感覚を持っている人間は、その人じゃないと持てない感覚という評価もできます。その人しか持てない感覚が必ずしも社会にとって望ましいか?は分からないが、一定割合で社会にとってプラスとなる感覚になりえるのです。多数派はいくらでも代わりがいて、その人じゃないといけない理由はどこにもないし、いなくても困らないケースもあるだろうが、少数派の中にはその人じゃないと困るケースが多分に含まれる。社会で生まれる画期的な商品やサービスというのは結局元をたどれば、それが生まれた会社を興した人間の存在なくてしては成り立たない。起業家というのは日本では明らかに少数派だが、その少数派な人間がいなければ、今の社会は存在しないのですよ。そういう少数精鋭の人たちが社会を動かす原動力になるのに、そういう少数派の感覚は間違っていると、社会から排除しようとかかるのが現代文という害悪なのです。私は現代文という科目それ自体、あとは教えている教師、講師らも全員害悪な存在だと思っています。あとは現代文を教えるようにしている国もね。現代文は役に立たないし、やる意味があるとは到底思えないが、やる意味があると思っちゃっている人は後を絶たないようなので、こんなことをブログで行っても影響はほぼないだろうが、私は現代文を真面目に勉強している、教えているような人間を見ると、こういう目線でずっと見ますよ。

 

あとは現代文とは関係ないけど、漢字の書き順とかね。漢字の書き順ってものが一応決まっているけど、あれを考えた人ってバカじゃないの?と思うのですよ。何で書き順を決めたがるんだろうと?と。書き順が存在する理由は、漢字を綺麗に書くためなのだろうが、どの順番で書くと綺麗に書けるか?は人によって違う。書き順なんて馬鹿真面目に守る人間がいたら、それこそ思考停止ですよ。書き順も役に立たないと、私は断言します。つまり、書き順という概念が存在し、それを学校で教え、その状況に疑問を持たない人間が多いならば、特定の人間にとっての正解が、誰にっても共通の正解だと思っちゃう人間がとんでもなく多いことが証明できると思っています。書き順に正解なんか本来存在しなくていいのにね。自分にとって書きやすい順が他人にとってもその通りであるはずだと思ってしまう人間が多いのか?書きやすさとは関係なく書き順は守らないといけないと思っている思考停止の人間が多いのか?は分からないけど、前者の人間も一定割合はいると思います。漢字の書き順も現代文のなんのために学ぶのか?本当に分からないですね。でも、現代文が科目として存在することを正しいと思っている人、疑問を持たない人が多いってことは、感覚に正解が常に存在し、人によるとか、そういう概念を持たない人が多いってことなんでしょう。日本人はいわゆる多様性への非寛容とも言うべき国民性ということなんですよ。それを促進させているのが現代文という科目ですよね。私が現代文を真面目に勉強して、その洗脳にハマっていたら、今頃は感情論しか言えない人間になっていたかもしれないです。それを考えると恐ろしいです。一言で言えば、現代文っていうのは勉強すればするほど、思考停止人間、考える力を持たないバカを作り出す科目なんですよね。

 

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