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数学ができないことと論理的思考は関係ない!論理的思考を鍛えることはそもそも重要ではない

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数学を勉強すると論理的思考が鍛えられるということを言う人もいるが、全くそれは的を射ていないと思う。数学は論理的思考が必要というのは同意しないでもないけど、基本的には暗記の要素が大きいと思っている。数学で必要な論理的思考の部分は他の科目でも必要な部分であり、別に数学に特有なものではない。数学が暗記が大半だというのが私の意見で、これは私が数学を勉強した中での経験談によるものではあるが、結局数学もパターン暗記ができれば、それに越したことはなく、いかに多くの問題をこなせるか?が重要なのです。事前に多くのパターンの問題と解法を頭の中に入れておけば、それによって対応できる問題の数は増えると思う。増えるが、全部には対応できないので、そこで論理的思考によって解かないといけない問題が出てくる。しかし、それは暗記科目と言われている科目も同じだ。論理的思考というのは持っている知識を生かして、そこから論理的に考え、答えに至るための思考だと思っているが、例えば日本史だって論理的思考が必要な場面は多々ある。知識を知っていればそのまま答えられる問題も多くあるが、それは数学も同じ。事前に経験している問題に近いパターンの問題が出れば、対応するのは容易いだろう。日本史だって暗記だけではどうにもならない問題が出てくる。

 

それはつまり、知識として知らない問題が出たときだ。そのときにも論理的思考を使って答えにたどり着くことができる場合もある。これは実際に入試問題として出たわけではないが、ある漫画作品で出題されたクイズで、1932年5月15日は何曜日か?という問題があった。この答えを知っている人はまずいない。この1932年5月15日というのは、ある有名な事件が起きた日付なのだが、その知識がないとまず解けない。これは五・十五事件が起きた日付で、どうやってそこからどの事件が起きた曜日を特定するの?と誰もが思うだろう。実は数学の公式を使うと解けるらしいのだが、先ほど挙げたある漫画作品では、数学の公式を使わずに正解にたどり着いたキャラがいたのだ。それはその五・十五事件の当日、暗殺された犬養毅首相の婦人の行動を知っていたからだ。事件当日は夫人は結婚式に出席するために帝国ホテルに向かっていたそうだ。だから、なんだ?と思うかもしれないが、結婚式が行われる曜日というのはだいたい決まっている。休日だ。土日祝日のどれかになる。そして、この当時は土曜が休日ではなかったということを知っていれば、答えは出る。祝日に当たる可能性の低さを考えると、日曜日と答えるのが1番自然だろう。

 

つまり、日本史の問題でも論理的思考を使わないといけない問題はあるし、ある程度の知識と論理的思考を駆使すれば、未知の問題、どうやって解くの?という問題も正解できる可能性があるのだ。事件当日に、夫人が結婚式に出席していたという知識から、論理的に考えることで、正解に近づくことができる。そして、これは私が実際にやった例だが、漢字の書き取り問題で論理的思考を働かせて正解にたどり着いた経験があるのです。漢字の問題なんて100%暗記だろと思うかもしれないが、論理的思考を駆使して正解できる場合もあるのだ。それは私が小学校5年生くらいのときのことだったと思いますけど、当時塾に通っていて、そこで漢検の5級を受けたときのことなのですが、5級の漢字書き取りの問題で「しゃおんかい」ってのが出たんですよ。書かせるのは「しゃおん」の部分のみですが、大人ならばほぼ誰でも書けるけど、当時小学5年生の私は「しゃおんかい」という言葉をそのとき初めて聞いたし、その意味ももちろん分からない。しかし、私はこの問題に正解できたのです。どうして正解にたどり着くことができたのか?というと、漢検の仕組みを利用したのです。

 

当時の私は、漢検というのは出題範囲がある程度決まっていることを知っていた。級が上がるごとに出題範囲はどんどん広がっていくのだが、出題範囲がある程度決まっているということは共通している。そして、5級レベルだと範囲は広くなく、特定の漢字が読み方を変えて出題されたりするのです。で、そこから私はどのように考えたか?というと、5級の勉強をしたときに遭遇した「しゃ」と「おん」と読む漢字を思い出し、それを組み合わせれば正解になるのではないか?と思ったのです。つまり、「しゃおんかい」という形で過去に見たことはないけど、「しゃ」と「おん」という個別の独立した形としては、勉強をしているときに見たことがあるんじゃないの?と思ったのです。実際、5級の勉強をしたときに出てきた漢字の中で「しゃ」と読む漢字は謝で、「おん」と読む漢字は恩しか、当時は思いつかなかったと思う。よくわからないけど、とりあえずこの2つ書いておこうと思って書いたら、見事正解でした。謝恩会という言葉は当時の私は見たこともないし、聞いたこともないし、意味も知らない。しかし、漢検は出題範囲がある程度決まっているということは知っていたし、自分が漢検の過去問とかを使って勉強したことがある漢字1字ずつが使われているはずだと考え、「しゃおんかい」としては見たことがないけど、「しゃおんかい」で使われている「しゃ」と「おん」という漢字字体は見たことがあるはずだと思ったんですよ。「しゃ」と「おん」と読む漢字のうち、5級の勉強をしているときに出てきたものはどれだろう?ということを使って、結果正解にたどり着きました。

 

日本史や漢字の問題が暗記科目という側面はあるけれども、答えが分からない問題に関して、論理的に考えれば正解にたどり着くことが可能というのは、実は数学と一緒で、数学だって覚えてさえいればなんとかなる問題があるはずで、そこはそんなに差があるとは思えない。日本史や漢字の問題だってわからない問題を解くときには、自分が知っている知識を使って論理的に考えることで正解にたどり着けることがあるのです。林修氏は数学が1番大切と言っていたけど、私は全く同意しない。論理的思考が養われるといったところが、確か理由だったと思うけど、論理的思考はどの科目でも必要になるものなのです。そして、さらに言えば、数学とかを解いても論理的思考が磨かれるとは思わない。ようやく本題に入るけど、私は大人になっても論理的思考ができない人をたくさん見てきた。こういう人は数学を学べば論理的思考が養われるのか?と言えば、恐らく関係ないだろう。数学ができないことと論理的思考ができないことは何の関係もない。なぜならば、論理的思考ができない人は論理的思考をしないだけだからだ。

 

言っていることがよく分からないという人もいるかもしれないけど、論理的思考ができないと思われる人も、実は論理的思考をしないだけなのではないか?と私は思っている。要するに、論理的思考をすべき場面の判断ができていないというのが、私の考えになる。数学というのは大前提として論理的思考を使わないと解けないというルールになっている。感情論では解けないのだ。数学における感情論ってなんだ?って話だけど、例えば面積を求める問題で、目分量で答えを出すようなケースがそれにあたるだろう。与えられた情報を使って式を組み立て、それを解くというプロセスを経ないと、正確な答えは出せないということがルールになっていることをみんな知っているのです。だから、数学の問題を解くときには、論理的思考を勝手にするのだ。しかし、例えば何でも良いんだけど、政治家の不倫をどう思うか?って議題で話し合うときに、確実に感情論で語る人が出てくる。不倫はよくないことなんだから、政治家であってもすべきではない。ということを言う人がいる。不倫は法律に違反することかもしれないけど、それが=よくないか?どうかは別問題なんですよ。この問題に関しては、全く問題ないという回答をする人も実際結構いて、政治家の能力に関係ないのだから放っておけばいいじゃん。という人もいます。

 

論理的思考がよりできているのはどっちか?というと、後者だと思うのです。政治家は国民のために働く職業であり、そのために必要な能力を備えている必要がある。そして、不倫をするような政治家がいたとしても、私たち国民生活に何の変化(マイナスになるようなこと)がないし、政治家の振る舞いに細かく文句を言う人が増えると、政治家になろうとする人が減り、政治家の中で有能な人間の数も減ると。それ自体が私たち国民生活にとってマイナスなんじゃないですか?という言い方をする人もいるし、これは私はかなり論理的思考ができていると思う。私に言わせれば、政治家の不倫を糾弾している人は多くが感情論だと思う。しかし、この議論で感情論を言ってはいけないルールは存在しない。つまり、感情論がいけない決まりがないから、感情論を言う人がいるのだ。それはイメージの問題で不倫はよくないと感じ、それを結論として持ってきてしまっているというだけで、それがその主張をする人にとっては正しいと思っていることであるというだけなのだ。要するに、これは感情論で判断して良いことでしょう?という気持ちがあるから感情論を使っているだけであって、その人が論理的思考ができないとは決めつけられない。確かに感情論がいけないということが感情論という言い方もできるし、論理的思考を使った方が、感情論を使っている相手を圧倒しやすいということは言えるものの、だからといって感情論を使う方が間違っているとまでは言えない可能性もある。

 

私個人の意見では、善悪の是非を感情論で決めるのはよくないと思っている。それはいじめと変わらないと思っているから。いじめが世間的によくないものとして使われるならば、それは控えるべきだろうと思うのだ。ただ、これは私の意見なので、それに共感しない人がいるのも当然だし、私の意見が正しいと客観的に説明することは難しい。つまり、仮に数学で論理的思考を養うことができても、数学を勉強すると、論理的思考ができない人ができることにならない。数学ができない人が論理的思考ができないとは言えないし、論理的思考と数学は全く関係ないと思っています。論理的思考ができないとされている人は、論理的思考よりも感情論の判断の方が望ましいという判断をしているだけなので、そこは単なる価値観の違いだと言うしかないかもしれない。ただ、感情論は議論においては確実に論破されやすいので、私は使いたくない。論破されたからといって、論破した方が正しいのか?というと、それも決めつけられないかもしれないが、論破した方が正しい意見を言っているようには見える可能性がある。少なくとも論破された方が正しいという見方はできないでしょうね。感情論は脆いので、議論をするときにはできるだけ使わない方が良いと思うし、できるだけ客観的根拠を持たせた方が良い。感情論には感情論で返せるので、こうなった場合には感情論が勝つことはない。感情論を使っている側はその議論において感情論を使ってもいいという判断なのだから、相手方がこちらも感情論を使うわと言えば、同じ理屈で相手を否定できるわけだ。この場合、議論に何の意味もない。感情論VS感情論はお互いが永遠に感情論を使っている限り、何の結論も出ないのだから。

 

さらに重要なのは論理的思考ができる人間であっても、その人が非常に幼稚な人間だった場合には、論理的思考の能力は宝も持ち腐れとなる。数学と論理的思考は無関係だと思うが、仮に関係があったとしても、どれだけ論理的思考を鍛えたところで、それを発揮する機会がない人もいる。それは日本人には非常に多い傾向として私が今まで見てきた事象だけど、論理的に導き出された結論が、自分の感情に相いれない場合、それを認めようとしない人たちです。つまり、感情論を話す人たちは、論理的思考がそもそもできないケースもあるかもしれないけど、論理的に導き出された回答に納得がいかないから、それを無視し、論理性とは無縁の独自の感情的な回答を持ってくるのです。例えば、食べ物を粗末にしてはいけないとか、食べ物で遊んではいけないということを主張する人がいるが、それがダメならばプールはダメだろうね。貴重な飲み水を娯楽に使っているわけだが。実際、海外でコーラを使ってプールで遊ぶYoutuberがいて、すごい叩けれていたみたいなのだが、その動画には「コーラがダメで、水が良い理由があるのか?」というもっともな突っ込みが結構きていましたよ。当然、水を使ったプールが食べ物(飲み物)を粗末にする、食べ物(飲み物)で遊ぶ行為と認めてしまったら、自分だって過去にそういうことをしてきただろうから、自分の間違いを認めてしまうことになるから、それはできないわけです。水は再利用ができるとかいう反論をする人もいたが、それはつまり水を遊びに使っても、飲み水はちゃんと確保できるから困らないだろう?という主張なんでしょうけど、それが通るならば後述する寿司のシャリを残す人のやっている行為だって、別にそれが原因で食べ物に困る事態は起きません。

 

これは日本で数年前に話題になったことだけど、寿司のシャリを残してネタだけ食べる人たちがいて、その人たちも叩かれてましたよね。ただ、これに関しても反論している人がいて、ラーメンを食べている奴はスープを残すじゃないか?というもっともな反論がありました。その反論に関しては、「スープを全部飲んだら健康に悪いだろ!」みたいな反論がきていたのですが、「あ、こいつバカだなw」と、私は直感的に思ったのです。そのラーメンのスープを全部飲んでいたら健康に悪いという反論をしていた人は、寿司のネタだけ食べて、シャリを残す人を非難していたのです。つまり、この人の主張としては、食べ物(飲み物)を残すのはよくないことだが、それで健康を害してはいけないということになる。その結果として導き出される最適解は、この人は「ラーメンを食べるべきじゃない」ってことなんです。だって、ラーメンを食べる以上は、そのどちらかの問題は常に発生することになるから。スープを全部飲み干せば健康に悪いが、全部飲み干さないと食べ物(飲み物)を残すことになる。しかし、ラーメンを最初から食べなければ、スープを残すということと健康を害すということのどちらも防ぐことができます。つまり、この人の主張を前提として、論理的に考えた場合、ラーメンを一切食べないのが正解になります。ただ、じゃあこの人が今後一切ラーメンを食べるのを止めるか?と言えば、絶対にやめないですよね。

 

なぜならば、精神が幼稚だからです。この人は食べ物を残すことと健康を害すことはともによくないということを正解だと思っているわけですが、それが正解であるという前提のもと、論理的に考えると、ラーメンを今後一切食べないのが正解になるのです。ラーメンを食べないで死ぬ人なんかいないですからね。それをやっても困らないでしょう。しかし、論理的に導き出されたこの回答は、その人にとっては望ましくない、とても受け入れられないから、絶対に肯定しない。それは論理的に導き出された、反論の余地のない回答が自分にとって不都合な場合、それを感情的に否定しようとするからです。感情論が生まれる理由の1つはこういったところにあるのです。精神が幼稚じゃなかったから、論理的に導き出された回答を受け入れますよ。数学で論理的に出された回答は、誰も否定しません。それは論理的に出された回答は正解により近いはずであり、みんな正解を目指しているからです。つまり、論理的に考えて答えを出すことというのが、数学において一切不都合を生じさせないのです。でも、それ以外の場面では不都合が生じるから、あえて論理的思考をしないような人間が出てきます。数学とそれ以外の場面では、こういった違いがあるので、数学で論理的思考を鍛えれば、論理的に考えられる(考えようとする)人間が増えるはずだというのは、あまりにも短絡的すぎます。精神的に幼稚な人間の存在を無視しているのですから。数学と論理的思考は関係ないと私が思う理由はこういった部分も含みます。

 

論理的思考を鍛えるうえで重要なことの1つには客観的に論理的に出た回答が正解であるはずだという認識の確保であり、論理的思考を鍛えることは二の次です。そもそも論理的に考えられているか?ってこと自体が結構主観なんですよ。だから、現代文の解答にいろいろと文句がくるわけ。1つの文章と問題があったときに、1つのパターンしか正しい論理的解釈を認めないのが現代文なわけだが、だから私は現代文が嫌いなのです。論理的思考をすれば現代文は解けるというが、それ自体が感情論であり、それは出題者がそう望んで問題を作ったというだけの話なのです。出題者はそりゃ論理的に考えれば答えは1つにしかならないはずだと思って作っているはずだが、そう努力しているからといって、それが本当に実現しているか?は分からない。だって、証拠がないじゃん!出題者が論理的に考え方ができているなんて証拠がないのに、多くは出題者は論理的思考をミスなくしているはずだという期待を持っているに過ぎない。林先生のテレビなどでの言動を見ていると、明らかにおかしいこと言っているよな。と思うことが多々あるんですけど、そういう人たち(実際に作っているのは予備校講師ではないけど)が入試問題を作っているわけでしょう。論理的思考がミスなく、誰からも突っ込まれることなくできる人なんてほぼいないのに、出題者は論理的思考がきちんとできているなんて前提はどう考えても生まれないと思うんですけどね。警察官に悪い人はいない!みたいな論理と同じなわけですよ。ある考え方が論理的か?否か?を判断するときに使われるのは人間の感覚であり、主観であり、感情論なのです。ある考えが論理的か?そうじゃないか?を判断するときに使われる説明は、言ってしまえば「私はそう思う」でしかないので、私はそうは思わない、感じないと言ってしまえばそれまでなのです。数学も現代文も大学に入るためには必要な科目だとしても、生きるときにはほぼ不要だと私は思っています。

 

 

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