私たちが誰かと議論したりするとき、相手の反論を聞いて「説得力ないな~」と思うようなことがあるのではないでしょうか?説得力というのは、相手に対して反論するときに必要不可欠な要素みたいな感じで言われているし、私も今までそう思ってきました。でも、相手に自分の主張を通すときに、反論するときに説得力を必要とする意味が分からなくなってきたのです。説得力は一体何のために必要なのでしょうか?相手から「あなたの言っていることは説得力がない」と反論されたときでも、それの何がいけないのだろうか?と、私は考えるようになってきたのです。例えば、先日ロンドンブーツ1号2号の田村淳氏が青山学院大学を受験することを決めたそうです。それは政治家になるための準備なのでは?とも言われています。本人にその意思があるのか?は分かりませんけど、仮にそうだとうすると大卒という肩書、ある程度の有名大学であることの肩書がないと政治家にはなれない、当選できないという思いがあるということになるのでしょう。でも、大卒の政治家じゃないといけない理由なんかないし、大卒の政治家は高卒の政治家よりも優れていると言えるのか?も疑問です。政治家に必要な素養を大学で学ぶことができるという意味では、無関係ではないとしても、大学で学ぶことなんて大学に入らないでも個人で勉強できると思うんですよ。文系ならば尚更です。
だから、政治家になるために大卒になる必要なんかないと思いますが、投票する国民がそうは思ってくれないという事情があるのかもしれない。つまり、仮にそうだとすると国民は大卒の人間じゃないと政治家に相応しくないと判断しているということになります。これが今回私が挙げている説得力なんていらない。という核心に近い部分になるのです。大卒の政治家が高卒の政治家よりも有能だとは言えないが、イメージでそう判断する人がいると思う。それはまさに説得力を求めている人になると思うのです。説得力のある話し方ができないと、主張をするときに欠陥があるみたいな見方をされるが、その必要はないと思います。例えば、ある人がおすすめのダイエットを紹介してきました。でも、その人が太っていたとしたら、「お前が紹介するダイエット方法なんて説得力ないだろ」って言われると思うのです。確かに説得力はないかもしれない。しかし、その太っている人が紹介するダイエットが効果がないなんて証拠はどこにもないのです。そもそもその人がそのダイエット方法を試してみたのか?分からないし、試したとしてもその人には合わなかった(他の人は合うかもしれない)など、いろいろな可能性があると思うのです。このケースでは説得力の有無は重要ではないのです。その太っている人から紹介されたダイエット方法が、自分にとって効果があるのか?ないのか?を考えるところが重要なのです。基準はその太っている人ではなくて、自分じゃないといけないはずなのに、なぜか太っている人を基準にしてしまうのはおかしい気がします。効果の有無を紹介した人の要素のみで判断してしまう。これが説得力の有無に頼りすぎるところの問題点なのです。
別の例を挙げると、学歴が微妙な人が家庭教師をやっていて、「そんな微妙な学歴の人が家庭教師をやって人の勉強を教えるとか、説得力なさすぎる」とか言われることもあるかもしれない。でも、その人は例えば古典がめちゃくちゃ得意で、他の現代文、英語、社会科などは苦手なせいで良い大学には入れなかった。でも、古典だけ教える分には何の問題もないでしょう?みたいなパターンがあると思うのです。つまり、見た目の学歴は微妙でも、ピンポイントの勉強についてはかなり有能と言える面があるかもしれないですし、そもそも自分がやることと人に教えることは違うわけですから、この場合の学歴と勉強を教える能力は必ずしも関係あるとは言えないという話になります。だから、見た目の学歴だけを見ると家庭教師をやる人間としては説得力がないのはそうかもしれないが、その人が勉強を教えることに関しておかしいと言えない余地も存在しているはずなのです。本来はそういう細かいところまで見て判断すべきところを、かなり大きな部分しか見ていないで判断をするケースというのがあるのではないか?と思います。説得力を身に付けるべきと考えるということは、細かいところまで考えを巡らせられない、つまり見た目のイメージで判断してしまうということと同義な気がします。
だから、説得力を増す方法を考えるというのは、議論において一般的な手段としては有効かもしれないが、すでに説明したようなことを話してしまえば、いちいち説得力を増す方法を考える必要なんかないと思います。いらないですもん。説得力のある話し方ができないこと、説得力のない人みたいなレッテルを貼られてもどうでも良いと思います。説得力の有無と、その主張の妥当性はそんなにリンクしませんから。だから、先ほどのケースで言えば、学歴が微妙な人が家庭教師をやっていることに関して、そんな奴が言っても説得力なんてない!と反論されても、こうこうこういうケースでは学歴が微妙な人でも勉強を教える意味はあるという言い方ができる場合があるわけですから、簡単に論破できると思います。ダイエットのケースも同じですね。特定の人は効果がないかもしれないが、それは別に全員じゃない。また、そもそも怠惰が理由であるダイエット方法を実践できなかったから痩せられなかったかもしれないので、勤勉な人が続けられればダイエットは成功できるかもしれないし、方法論に誤りはないが、実践する人にちょっと問題があるパターンでは効果はないが、実践する人が勤勉ならば効果が出るかもしれないって予測は普通に働くと思うのです。いろいろな可能性が考えられる中で、ただ1つのサンプルのみを参考に全てを判断してしまうのはもったいないと思います。
それに私たちは無意識のうちに説得力のないこと言っている機会が多いと思いますよ。プロ野球選手でもない人間が、プロ野球選手のプレーに文句を言ったりするケースもあると思いますが、これは正直言って説得力はないと思います。そうだとしても、その素人の意見が全く的外れか?どうかは別ですよね。ちゃんと中身を精査してみたら、良いこと言ってるんじゃないの?みたいに思えることはあるはずで、見た目のイメージだけで判断したら素人の意見なんか役に立たないと一蹴されそうだが、見た目に惑わされないような、誰が言ったか?は関係ないと考えられる、全ての意見に耳を傾けられるような人が精査すれば、的を射たこと言っているじゃないか!と評価してくれる場合もあるのではないでしょうか?大事なのは意見の中身がどうか?であって、誰が言ったか?ではないと思います。以前、政治家の中田宏氏がネットの匿名の意見は信用できない。と言っていた記憶があるけど、これも完全にイメージで判断しているパターンでしょう。匿名か?顕名か?は関係ありません。匿名の人が言った意見を信用できないと思っているならば、その人が名を明かせば一気に信用できるようになるんですか?意味が分からないのですが。信用の有無はその意見の根拠とか、そういったところに見出すべきであって、匿名か?どうかは本来何の関係もないと思います。だから、説得力のある話し方を身に付けるとか、そういうことは必要ないと思う。説得力にこだわる必要がないのです。
説得力がないと反論されても、説得力にこだわる人間は、見た目のイメージだけで判断してしまう、物事の本質を見られない人間だ。とでも、言っておけば良いんじゃないですか?説得力は相手の事情じゃなくて、自分の事情なんですよね。相手の言っていることの真実性や確かな能力を備えているか?といったことよりも、自分が相手をどう感じるか?思うか?という感覚の問題なので、そんなところを重要視してもしょうがない気がするのです。説得力の有無なんか気にしている人間は、本質的な部分で人やモノを判断する機会を逸失するわけです。もったいないじゃないですか?だから、「説得力」という言葉を使っている人がいても、何だかよく分からないことを言っているなーと思うことにしています。

究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~
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