就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

裁判員制度の辞退率が高すぎ!デメリットが多く、行かないのは賢明?

【スポンサードリンク】

裁判員制度は多くの人は他人事のように感じているかもしれない。私は今のところ経験はないが、いつか呼び出しがくるかもしれない。参加してみたいと思っている人もいる反面、絶対に参加したくないと思っている人もいるのではないでしょうか?私はどちらかと言うと後者ですね。裁判員制度の辞退率というのは、年々上がっているらしいのですが、今は6割以上らしいですね。あと、呼び出しがきても無視する人も2割くらいいるみたいです。6割という数字は辞退できた人の数字であり、辞退をしたい人の割合はもっと高いのでは?と推測できますが、辞退したい人の気持ちはなんとなく理解できます。だいたい何個かの理由に分類できると思う。仕事などで忙しいとか、日当が安いとか、容疑者の前に自分の顔を晒したくないとか、遺体写真を見たくないとか、自分が人の人生を決めたくないとか、そんな感じじゃないですかね?正直言って、どれも辞退したいと思ってもしょうがない理由に思えてきますが。

 

私も正直辞退したいという気持ちが強いです。それはどうしてか?というと、恐らく他の人の辞退理由とは違うと思います。強いて言うならば、先ほど挙げた中で言うと、他人の人生を自分が決めてしまうことの恐ろしさが1番の近いのかもしれない。私は辞退したいというか、多分選ばれないと思う。それは第一段階で裁判員制度の候補者に選ばれることはあっても、その後何か選考をするわけじゃないですか?その選考で多分落ちると思うので、あまり心配はしていない。何でそう思うか?っていうと、私はどんな裁判に参加したとしても、絶対に被告を有罪にはしません。裁判員制度は裁判員と裁判官を含めた多数決なので、私が無罪にしたからといって、結果が無罪になるとは限りませんが、私は絶対に有罪にはしないでしょう。だから、面接とかをやるのかな?その時点で多分申告しておくと思う。私は事件の内容や裁判の審理に関係なく、被告人を無罪と判断する。それでも宜しければ。と多分言うでしょう。そうすれば、多分選ばれないと思うし、仮に選ばれたとしても、実際に予定通り無罪にするでしょうから、どっちにしろ問題は生じないのだが。

 

何で私が絶対に無罪を主張するのか?というと、そりゃ100%有罪とは断定できないから。自分がこの目で見ていない犯罪を、証拠を通じて判断するしかないのが裁判になるわけだから、99.9%有罪というケースはあるかもしれない。ただ、それを全部有罪にしたら1000回に1回は冤罪が生まれるということになる。これは私の信念で、100人の真犯人を逃しても、1人の冤罪を生まない方が私は大切だと考えるからです。そんなことを言うと、当然反論する人もいるだろう。99人の真犯人が捕まるならば、1人冤罪は目を瞑るべきだみたいなことを言う人もいるかもしれない。でも、その人がその1人の冤罪者になった場合、文句を一切言わずに、罪を認めるのか?というと、そんなことは絶対にないはずだ。現在の司法制度を前提にすると、冤罪を100%防ぐ方法はない。冤罪が起きているのか?どのくらいの確率で起きているのか?みたいなことは正直、解明のよしようがない。つまり、現在の司法制度を前提にするならば、「冤罪が起きてもしょうがない制度」と言える。それに国民も文句を言う人はいないってことは、99人の真犯人を捕まえられれば、1人の冤罪が生まれてもやむを得ないという認識なんじゃないか?と思うのです。

 

ただ、真犯人を確実に処罰して、かつ冤罪も生まない制度と言うのは存在しない。現実的には実現不可能だ。冤罪が確実に1件も生まれていない、または生まれないと断定できる制度なんかはありえない。そうなれば、二者択一の問題になってしまう。99人の真犯人を処罰できれば、1人の冤罪は止むなしなのか?99人の真犯人を逃しても、1人の冤罪を出してはいけないのか?これは個々人の価値観の問題だろうと思う。ただ、前者を主張する人間が、じゃあ実際に自分がその1人の冤罪者になった場合に、あなたは無実を一切主張しないのか?自分が冤罪を被ったときに文句を言わないのか?というと、絶対に言うでしょう。でも、冤罪が生まれてもしょうがない(冤罪が生まれたって良いじゃないか!)というシステムを選択しておきながら、自分が実際に被害に遭ったときに、まるで後者の方を選択しているかのような言い分は随分虫が良すぎる気がする。現実的には前者を選択する人の方が多いと思う。それは自分が冤罪被害者に遭う確率の問題から判断してのことでしょう。自分が冤罪に遭わなければ、99人の真犯人を処罰するための犠牲になるのが自分じゃなければとりあえず良いや。それよりも真犯人が野放しにされている方が問題だと感じている人が多いからでしょう。確率論から言えば妥当な判断と言えるかもしれないが、でも万が一自分が冤罪被害者に遭ったときにシステムの不備を主張するわけですよね。

 

私はそれがどうもしっくりこないので、最初から後者を選択しておきます。そして、裁判員制度では、どんな事案だろうと100%無罪を選択する。無罪を選んでおけば、被告人の冤罪が100%防げる。多数決で決まるから、必ずしも無罪に終わるわけじゃないが、少なくとも自分の判断が、冤罪に加担することは100%ない。私の中では真犯人を取り逃すよりも、無実の人間を縛り挙げてしまうことの方が物凄く恐ろしく感じる。だからという話です。真犯人を確実に処罰しつつ、冤罪を絶対に生まない制度は存在しない以上、2つのうちからしか選べない以上、前者を選んだ人間は自分が冤罪に遭っても文句は言えないというのが自然だと思う。逆に後者を選んだ人間は、真犯人が野放しにされて、その被害に自分が遭っても文句は言えないことになりそう。そういうメリット、デメリットが交錯する制度しか選べないのだから、どっちを選んでも望ましい結果は訪れない。どっちがマシと考えるか?でしかない。冤罪を他人事と考えて社会全体の安心を選ぶか?他社への想像力を働かせて、100人の安心よりも1人の平穏を守るか?価値観の問題になるが、私は後者を選ぶので、裁判員裁判に仮に参加することになっても、無罪しか示さないだろうと思います。

 

 

えん罪を生む裁判員制度―陪審裁判の復活に向けて

えん罪を生む裁判員制度―陪審裁判の復活に向けて

  • 作者: 石松竹雄/土屋公献/伊佐千尋
  • 出版社/メーカー: 現代人文社
  • 発売日: 2007/08/02
  • メディア: 単行本
  • クリック: 10回
  • この商品を含むブログ (3件) を見る
 

 

あわせて読みたい記事