公共の場ではマナーが特に主張されています。それが当たり前の光景にも思えてくるが、本当に正しいのだろうか?というのも、公共の場だからこそ、私はマナーなんていんらないと思っている。正確にいうと、公共の場でマナーを要求するのは、それこそがルール違反じゃないか?と思うのです。それを分かりやすく説明すると、公共の場っていうのは、そもそもどういう概念でしょうか?公共の場って言うのは私的領域じゃない場所ってことだと思う。不特定多数が出入りする場であって、その不特定多数な人たち以外がそこを管理しているような場所じゃないか?と思います。つまり、そこを利用している人はみな権限で平等なはずです。管理者だけが権限に関して上位に位置している。例えば、公園とかはそうだと思う。その公園を管理しているのは、恐らく自治体になると思うが、その公園の使用ルールを決めているのも勿論自治体になるでしょう。
最近は公園でいろいろなスポーツができなくなっているらしい。それはしょうがない気もするが、以前はそんなことなかった。ってことは、少なくともルールとしてそういうスポーツをしてはいけないということはなかったのです。ただ、スポーツによっては、それをしていない公園の中にいる人たちが危ないだろうということで、キャッチボールとか、サッカーとかを禁止する公園が増えてきた。自治体によって禁止が謳われたら、理屈としてはそれは守らないといけない。ただ、禁止されていない状態では、みんな好きなようにやっていたわけだよね。私も子供の頃に公園で野球をやっていたりした。しかも、カラーボールではなく、軟式のボールを使っていた。当時は何とも思っていなかったが、今思えば危ないというのも頷ける。だから、公園でそれができなくなったとしてもしょうがないと思っています。
でも、そういうルールが無いとすれば、危ないとしてもそういう行為をして良いという状態が発生しているということ。公園を利用したいが、毎回キャッチボールをしていて、危なくて公園に行けないという人たちがいるかもしれない。危ないスポーツが禁止されていなかったときにはそういう状態はあったんじゃないか?実際に。でも、公園使いたいし・・・となれば、どうするか?多くの人は、そのキャッチボールをしている人たちに文句を言うんじゃないか?と思う。「危ないから別のとこでやってよ!」とか言うのではないでしょうか?さて、この人たちの言い分は正しいのか?というと、少なくとも正しくはないと思う。心情的には理解できなくはないが、その言い分を正当化できる根拠がないのです。感情論以外で。つまり、多くの人が迷惑しているのだから、ちょっとは考えてよ!というのが、恐らく彼らの真意なのではないか?と思います。多くの人が迷惑をしていたら、特定を行為をやめさせて良いというのが、彼らなりの理屈なんでしょう。ただ、残念ながら、多くの人が迷惑をしていたら、ある行為を咎めて良いとか、やめさせて良いというルールはそもそも存在しない。
そうなると、彼らの言い分は多くの人の同意は得られそうだが、だからといって正しいことにはならないのです。むしろ、公園でキャッチボールをしたいと思っている人たちは、それが叶わなくなるわけだから、その点に関しては彼らは迷惑を被るわけです。つまり、キャッチボールをすることでその他の大勢の利用者に迷惑をかけている。というのは恐らく正しい。ただ、キャッチボールをやめさせて、その他大勢の人たちが公園で長閑に過ごすというのは、キャッチボールをしたい人間に迷惑をかけていますよね。特にこれといったルールが存在しない中では、公園でキャッチボールをするのも、長閑に過ごすのも、どちらの権利も認められている。問題はその両立が難しいということです。つまり、その両立を目指す案ならばまだしも、どちらかを優先させる案(この場合、キャッチボールをしている連中を排除させるようなやり方)であれば、キャッチボールをしてその他大勢に迷惑をかけている連中とやっていることは変わらないということです。
どちらも自己利益を追求していることには変わらないのです。他人に迷惑をかけるのを良しとしないのが恐らくマナー違反なんでしょうけど、マナー違反を主張している人間も、自分たちの利益追求のために、結局誰かに迷惑はかけているじゃないですか?それは何故良いんですかね?で、冒頭でも言ったように、ルール権者でもない人間がそれを主張しているわけです。ルールを作って立場ではない人間がそれを言っているのだが、何故正しいのか?多数決の原理で正しいみたいな雰囲気はあるが、別に正しい根拠があるわけではない。そうなると、彼らがすべきなのは、公園の例で言えば、自治体に対して「こういう人たちがいるんだけど、ちょっと規制してよ!」と訴えることじゃないですか?その結果、自治体がどう動くか?はワカラナイ。特定のスポーツや行為が禁止されれば、マナー違反を主張していた人たちが正しかったとなるし、自治体が何の対策もしなければ、マナー違反を主張していた方が間違っていたことになります。
全く別の話になるけど、例えば土地ってあるじゃないですか?今日では私的領域にになっているけど、地球って概念で言えば、これは本来は人類共有の財産だと思うんですよ。だって、その土地は、その土地の所有者が作り出したものじゃないでしょう?初めから存在していたものでしょう?それが今日では特定の誰かのものになっているわけですよ。それはそういう風にして良いというルールが、いや法律が存在しているからですよね。誰かが作ったわけでもない土地が、誰かに占有されているわけですよ。その土地は、その所有者以外には好き勝手使えないわけ。その人が法律の範囲内で好き勝手使ったり、処分したりして良いわけだ。今日において、その法律に異議を唱える人はほとんどないないはず。特定の誰かが作り出したわけでもない土地が、人類共有の財産であるはずの土地が、誰かのものになっているという現状を容認するならば、じゃあ公園とかだって、誰かの都合のいいように使われている現状があるならば、それは何かダメなの?となるわけです。土地は明確に法律で決まっている。公園の場合はそういう使い方をしてはいけないということはないという消極的な権利を謳っている状態でしょう。つまり、国語的な解釈で言うならば、どっちもして良いってことを言っているわけだが、その状態の中、特定の使用方法を良しとしない人たちがいる。
再度言うけど、その心情自体は理解する。だが、そこで自分たちにとって好ましくない使用方法をしている人間を排除しようとするのは、私有財産制が認められている現代の日本において、特定の土地を占有している権利者を排除しようとする行為に近いと思うが。この2つの例で、唯一違いをあげるとすれば、土地の場合は、基本的に専有が認められているので、基本的に共存の余地はないということ。公園の場合は、専有するのもありだし、共存するのもありだということかな?公園でキャッチボールをすると、危ないからその他大勢はその時間は利用できない。だが、その他大勢が公園でのんびり過ごしていたら、場所をとられてしまい、キャッチボールをしたい人間もできなくなる可能性がある。どちらも迷惑だし、言っていることはそのとおりだと思う。公道を歩いていたら車が走っていますよね。ということは、誰だっていつ交通事故の巻き込まれるか?分からないわけだ。その状態はまさに公園でキャッチボールをしていて危ないという状況に似ている。公道は公園同様にみんなのものです。車が走っていると危ないだろ!歩行者のことを考えろ!と言っても、聞く耳を持つ人間はほぼいないでしょう。何でですかね?そりゃ車を運転して、歩行者に迷惑をかけることを問題視していない人間が多いからです。
だから、多数決の原理で多くの国民はそれを平気でやるし、国も当然認めている。認めないと都合が悪いというのもあるだろうが、でも、歩行者からしたら、車が走っているのは危ないというのはそのとおりで、公園でキャッチボールをしている人間に対して危ないだろ!と言っている状況に等しい。車を運転しないと生きていけないような人はともかく、そうじゃない人間が大半なんだろうから、キャッチボール同様、それをあえてやらないといけない理由はないわけだ。そうなると、車を運転して歩行者に迷惑を、恐怖心を与えて良いという暗黙の了解は存在しているのに、何故公園でキャッチボールをして、その他大勢の人たちに迷惑や恐怖心を与えてはいけないのか?となる。それが胃のマナー違反と言われている行為も同様です。多数決以外で説明は難しいと思うが。多数決で決まるというならば、結局マナー違反を言う人は「ただ、自分たちの都合の良いことしか言わないのね」という烙印を押されるという結論になるが。
管理権限やルールを作る権限のない人間が、何故か一纏めになってルールを作っているというのが、もはやマナーなわけだが、私は他人に迷惑をかけるのも、他人から迷惑をかけられるのも、どっちでもスルーするのが公共の場である以上、自然だと思うのです。利用している人間は誰もが対等なわけです。私的領域じゃないから、管理者以外の命令を聞く義務はないわけ。それがどうしても我慢できないならば、管理者に直接言うしかない。少なくとも対等である利用者に対してマナー違反という、いかにももっともらしい言葉を突きつけるのは、理屈の上から考えてもおかしいし、都合が良いように思えてならないのです。

それマナー違反ですよ! ~誰も教えてくれない、本当に恥ずかしい一挙一動
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