たびたび育ちが悪いとか、イライラするという人が後を絶たないのがクチャラー問題です。くちゃくちゃものを食べるときに音を立てている音が大変不快で、これを許せない!という人たちがいるが、そんなイライラするの?というのが私の本音です。私は他人の咀嚼音にイライラしたことがないから全く気持ちが分からないのだ。例えば、あるお店で食事をしていて、一緒に食べている相手がこのクチャラーだったとしよう。このくちゃくちゃする音は、どう考えても彼らがそこで会話しているときの話し声よりは小さいと思うのだが、何でその音すら我慢できないのでしょうか?音の大きさというよりは性質なのか?そもそも、不快に感じるか?どうかは本能的なものだから、理由なんかないんだろうけど、その不快に感じる音の発生源であるクチャラーが叩かれるようになったのは今に始まったことではないが、普通に考えてね、食べ物を食べていて音が全くしないなんてありえないわけでしょ。何を食べるかにもよるが、音は絶対に出ます。つまり、不快に感じるか?どうかはともかくとして、クチャラーに文句を言っている人も絶対に音は出しているんですよね。
私自身がクチャラー認定されるのか?どうかは知らない。今まで指摘されたことは1度もないが、問題はそのクチャラーに対して嫌悪感を持っている人の出す音が、周囲を不快にさせているのか?どうかです。クチャラーがいたとして、彼らに不満を言う人は割合的にいえば少ないはず。だから、本人も気付かないというのもあるだろうが。そうなると、自分ではクチャラーじゃないと思っている人も、十分周囲からクチャラーだと思われているかもしれない。周りが不快か?どうかでクチャラーか?どうか決まるならば、音の大きさや性質で決まるといっても、結局は文句を言う人の主観であり、ある音に対して気にならないという人もいれば、イライラする人もいることが普通にある。そうなれば、起こり得るのは、何らかの咀嚼音を発している人は隅から隅までクチャラーだと言われてもしょうがないということになります。クチャラーを叩いている本人がそもそも周囲にクチャラーだと思われていない根拠はどこにもないし、音を少しでも出していれば、周りに神経質な人間がいれば、その人からはクチャラーだと言われてしまう可能性はある。クチャラーが叩かれてはいるが、その本人も実は同じコトをしているのではないか?という意味不明な現象が起きている可能性もある。
そして、大切なのはここからです。そもそも何で音を立ててはいけないんですかね?例えば、じゃあラーメンや汁物をすする音がうるさいからなんとかしろ!と言ったらどうなる?クチャクチャした音ではないが、これを不快に感じる人がいるかもしれない。というか、ラーメンの音が不快といっている人はたまに見かける。ただ、これを不快といって非難してやめてくれるか?多分やめてくれないだろう。どうしてだろうか?しかも、その人がクチャラーを非難している人だったとしてもだ。味噌汁を飲むときに音がするはずだが、その音を嫌う人はほとんどいない。だから、多数決で勝ててしまうんだ。だから、俺たちには味方がたくさんいるから、その音が不快だと言われても、それは世間的には共感してくれないのでしょう。つまり、クチャクチャする音は不快な人がたくさんいるから、自分が不快だと感じたらそれを理由を誰かを非難しても、賛同してくれる人がたくさんいるから、言いやすいし、まるでそれが正当性を持ったものといった雰囲気になる。
ただ、味噌汁をすするときの音が不快だという人はいても少数派だろうし、その音が不快だという人の意見を無視しても、ほとんど反感は持たれない。だから、恐らくこっちは誰も聞いてくれないでしょう。クチャクチャ音はそれをする方が悪いが、味噌汁をすする音はイライラする方が悪いという都合の良い理屈にも聞こえてくる。でも、変な話なんですよね。起きている事象は、両方とも他人を不快にする行為だ。クチャクチャ音では、他人に迷惑をかけてはいけないが、それ以外の音では迷惑をかけていいというのが、彼らの主張ということになる。クチャラーを非難する理由が、他人への迷惑であるならば、その理由に該当するものは、基本的にはしてはいけないことになるが、じゃあ味噌汁をすする音は何故良いのか?は説明できない。強いて言うなら多数決での差しかないが、多数決で勝つとやってよくて、負けたらやっちゃいけないというルールはそもそも存在しない。おまけに彼らは、クチャクチャする音を発生させている側だけを毎回非難するが、自分がその音に対して非常に神経質すぎるという考えは浮かばないらしい。つまり、イライラする原因が自分には全くないという都合の良い考えでもあるのでしょう。
話は戻るが、咀嚼行為っていうのは、人間が、いや人間だけじゃない動物が物を食べる行為であり、その咀嚼行為をしっかりすればするだけ音は当然出る。ただ、その音が出ないように適当に噛み始めると、それは健康とかに影響が出かねないのは知っているでしょう。例えば、「マナー違反のクチャラーは自然界的には正しい | 都市伝説大全」のブログには以下のことが書かれています。
>音が不快でマナーが悪いとされるクチャラーだが、実は自然界野性の世界ではクチャラーは理にかなった食べ方で正しい。
咀嚼(そしゃく)とは、食べ物を歯で咬み粉砕すること。小さくし唾液と混ぜることで消化と栄養吸収をすることができる。
食事のマナーとしては、口を閉じくちゃくちゃと音を出さないことが推奨される。くちを開け、くちゃくちゃと音を出すクチャラーは、マナーが悪く、またその音が他人を不快にさせるため嫌われる。
クチャラーの食べ方を、「犬食い」などと表現するように野性の哺乳類のほとんどはクチャラーである。しっかりと咀嚼することで、より唾液の分泌が促されて消化吸収がよくなる。唾液の分泌が多くなれば、くちゃくちゃとより大きな音が出ることになる。
野性動物にとって獲物に位付き捕らえるにはアゴの強さが重要となる。動物は食事のときに、口を大きく開け咀嚼することでアゴを鍛えている。結果として動物はクチャラーとなる。これは、自然においてはごく当たり前のことである。
要するに、普通に生きていたら、普通に咀嚼行動をしていたらみんなある程度のクチャラーにはなる。音の大きさなどは個人差があるが、クチャラーなのは全員共通だろうということ。咀嚼は身体の健康にもかかわってくる行為であり、本来は矯正する性質のものではないでしょう。物の噛み方の癖や歯の生え方、顎の形などによって起き得ることであって、それが本人の癖ならば、例えば、口癖みたいなものだろうか?口癖に難癖をつけて良いというのならば、クチャラー批判は一応通るかもしれないが、身体的な特徴が原因ならば、そもそも足が不自由な人が歩くのが遅くて、それにイライラ文句を言うようなものだろう。それが正しいというのならば、クチャラー批判をして良いんじゃないの?となる。
>では、クチャラーでない人は、なぜ「くちゃくちゃ」が気になるのだろう。
それは、幼少期の親の教育にある。
乳児期は咀嚼をせず、吸う、飲むだけだが、離乳食からは、咀嚼を始める。今までなかった「くちゃくちゃ」という咀嚼音がでるようになる。程度の差はあれ、この音が面白くて幼児はわざとクチャラーになる。
このとき親がしつけをすることで、食事の時にくちゃくちゃと音をたててはいけない事がマナーだと学び、クチャラーを卒業する。この幼少期の刷り込みがあるため、マナー違反であるクチャラーの音が不快に感じるのである。
本来はくちゃくちゃと音をたてて食べることが自然界では正しく、気にならないものなのに、文明という人間独自のものが、わざわざ気になる音として捉えているのである。
親のしつけが原因か?どうかは分からないが、親のしつけにしろ、そうじゃないにしろ、普通に自然発生的な音に対して、あまりに過敏に、わざわざ気になる音として捉えているというのはその通りでしょうね。クチャラー批判をする人たちは公共の場所で周囲への迷惑から言っているんだろうが、公共の場所なら尚更多少の迷惑を許容する姿勢が必要じゃないのか?公共の場所っていうのは、不特定多数の人が出入りするのだから、そりゃ多少は迷惑がかかるに決まっているし、それが私的空間であっても、何でもかんでも迷惑を指摘し続けたら、自分にだって、同じことをされるに違いない。少しでも、本当にどうでも良いようなことまで言われて、本人はショックを受けるかもしれない。四六時中相手の気持ちを考えて、緊張感を持ちながら生活するのは嫌だ。だから、私は他人の迷惑も許す。そして、こっちの迷惑も少しは許してくれ。という気持ちでいる。お互いがお互いの機嫌ばかりとりあったり、終始ピリピリした空気の中で生活したいとは思えないので、仮に私が誰かのクチャクチャする音にイラッときたとしても、スルーしますよ。

世界一美しい食べ方のマナー
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