「差別はしてはいけないのか?」という問いに多くの人は「するよりはしない方が良いだろう」みたいな、かなり曖昧な表現をする人が多いのではないか?と思います。それはなんとなく、心の底では差別はいけないものだと認識がありながら、全ての人間を平等に見られないし、平等に扱えないし、という自分がいるからです。多くの人は人種差別に反対するだろうが、そういう人がそれ以外の差別を全て否定しているとは思えない。差別というときに真っ先に挙がるのが、この人種差別で、よくニュースになることも多い。最近の話題だと、日本のミスユニバースにハーフの代表が選ばれたことに抗議をした日本人が多いらしく、この抗議をした日本人に人種差別だ!と海外からバッシングがあったらしい。そのバッシングをした海外の人は、じゃあ、それ以外で差別をしていないんだろうか?と思う。ある差別は叩くが、別の差別をスルーするならば、それこそが差別だろうと思う。
つまり、差別をするしか?しないか?以前に多くの人間は差別的な行動はみんなしているだろうと思う。人間には感情があり、好き嫌いがある。それに則って行動することは不自然とは思わない。差別を禁ずるとすれば、その不自然さを強要することになる。私は人種差別を肯定する気はないが、そもそも何で人種差別はいけないんだ?と冷静に考えてみると、上手い答えは出てこない。要は、人間が同じ人間に対して好き嫌いがあるのが自然とするならば、人種にだって、好き嫌いはあるだろうという話になる。人種差別を言動に表すことを禁止することは可能だろうが、そうなると、好き嫌い関係なく、世界中の60億人の皆さんが手を繋いで、仲良くしましょう!という状況を発生させるのが、そもそも理想ということになってしまう。
実は数日前にイケダハヤト氏のブログで「「仲良し教」が大嫌いです : まだ東京で消耗してるの?」というエントリーを見つけたのだが、大変興味深かった。嫌いな人たちと分かり合う、仲良くするのはもうよそうというもので、以下の引用の部分が胸に刺さる。
>日本って、なんでも「仲良く」させようとさせますよね。「仲良し教」とでも言いましょうか。。
元受刑者でブロガーのイノシシさんとも話したんですが、たとえば「犯罪被害者」と「犯罪加害者」を「和解」させようとしたり。
いや、その関係性、和解なんてしなくていいんじゃないかな…。和解しようと努力している暇があるなら、お互い自分の人生を進んだ方がいいんじゃないかな、と思ってしまいます。お互いがそうしたいなら別にいいんですが。
身近なところでは、子ども同士の喧嘩を和解させようとするアレも嫌いです。いじめっ子といじめられっ子が和解できるわけないじゃないですか。近づけるのではなく、むしろ距離を置くことの方が重要だと思います。
人種差別を例にすると、嫌いなものは嫌いなんじゃないですか?私は別にそういう差別的な目はないので、その気持ちはあまり理解できないが、私にだって特定の嫌いな人はいるし、多分気持ちは同じようなもんじゃないだろうか?嫌いな人を好きになるのは大変厳しい。ということは、その中で分かり合えないものは分かり合えないで良いと思うのです。国などの公的な立場にある者が、そういう差別をするのはおかしいと思うのだが、民間人同士の場合は、仲良くさせるのではなく、距離を置いた方が良い。人種差別をする人としない人の価値観は全然違うだろう。その差別自体がその国法律等に違反しないのであれば、権力を持って矯正することもできない。ここで出ているいじめっ子といじられる子の例は、ぴったりだと思う。学校教育は最終的に絶対に綺麗な方向へと推し進めようとする。それがいじめる側といじめられる側の和解でしょう。和解できる場合もあると思うよ?ただ、できない場合もあると思う。だから、もう別に良いんじゃないの?本人らに任せていれば。別に溝を作ったままお互いが卒業したって良いじゃない?嫌いなものは嫌いなんだから。
そういう意味でいうと、私が1つ言いたいのは、人種差別をなくしたいのならば、多くがスルースキルを身に付けることだと思うよ。差別をする側を叩く人の心理は、差別をなくしたいという思いがあるかだと思います。それは突き詰めると、差別しないで、みんな仲良く暮らそうよ!という気持の表れでもあるのではないでしょうか?ただ、それが現状では功を奏しない。それはイケダ氏の言うような仲良し教の表れなのかもしれない。仲良くする必要なんかない。そういうことをする人は、そういうことをする人と諦めて、スルーすれば良い。別にそういう差別をされることで、日常を脅かすことにならないのであれば。例えば、スペインのサッカーの試合で、ピッチにバナナが投げ込まれたとか以前聞いたが、あれも選手、メディア等が含めてスルーすれば良いのに。と思う。ああやって取り上げるから、差別する側が面白がるのでしょう。完全にスルーで、そういうことをする人もいるよね。くらいに思っておけば良いでしょう。完全に世界がシカトすればそのうち消えるんじゃないですか?彼らを矯正させようと思うのではなく、放っておけば良いじゃん。と思います。自分たちと仲良くしようだなんて思わなくて良いと思います。自分たちの輪の中に入らせようなんて思わなくて良いと思います。あの人たちとは分かり合えないから、放置で良いと思います。
冒頭でもちょっと言ったけど、私が感じているところでは、世界の中でも許容されない差別と許容される差別があるっぽいですね。前者は人種差別です。後者は何でしょうね?例えば新卒、既卒の差別とかかな?新卒、既卒の差別を問題視している人って、あまりいないと思います。それは自分たちの生活にほとんど関係ないから、それは人種差別についても言えるのだが、世の中の風潮的に肯定することができない。肯定したらマズイ空気になっているからとりあえず、反対派に入っておこうという人も多そう。人間の多くは、自分たちに関係のある差別や世界の風潮的に賛成とは言いづらい差別は反対するが、それ以外の差別の中で、自分には関係ないものや自分の価値観に照らして差別して当然だ。というようなものは賛成に回る。卑怯というか、都合が良いといったほうが良いでしょうか。新卒、既卒の差別だって、人によっては死活問題になりかねない。人種差別よりも、受ける被害は深刻な場合もありそう。おまけに新卒と既卒で能力などに差があるとは思えない。そこも人種差別と同様だ。でも、この差別を肯定する人は人種差別に比べても相当多いと思う。
ってことは、結局、差別をしない人間なんていないんだから、人種差別にしたって、それをバッシングする人もどっかで絶対に差別をしている。全く説得力がない。差別主義者が、差別をしている人を叩く。殺人者が人殺しを叩くみたいな、なんとも理解しがたい状況が普通に起きているのだと思いますよ。そういう矛盾をなくすためにも、日常を脅かさない程度の差別はみんなでスルーしましょうよ。ということです。ただ、「差別主義者は単に「頭が悪いだけ」であることが科学的にあきらかに | パレオな男」みたいなことを考えている人、研究をする人は、いやいや、俺たちがやっているのは差別じゃない!とか良いそうだね。そういう結論に持っていかないと、あなたたちも頭悪いことになっちゃうからね。差別か?差別じゃないか?というのは簡単に出るものじゃないだろうが、そこを利用して、都合の良い結論に持っていこうとする人がいるならば、先ほど挙げたような、都合の良い解釈をする人なんだー。と思うだろうね。人間は誰もが差別をするという前提に立つならば、差別を糾弾している人よりも、差別に無関心でぼーっとしている人間の方が、むしろ信用できるかもしれない。私も差別に怒るのやめようかな?

差別原論―“わたし”のなかの権力とつきあう (平凡社新書)
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