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現代文が大の苦手な私が勉強しないで捨てることに決めた理由

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私は入試の現代文が大嫌いだった。それは私が現代文の成績がよくなかった。というのもあるかもしれないが、大人になった未だに思う。何で正解を1個に決められるのか?ということ。正解がないということを言う人もいます。こんなことを言うとね、現代文ご誤答選択肢には明確な間違いがある。ということを言う人もいるが、そもそも現代文で問われているのは文章の解釈の問題であって、知識じゃないわけ。知識じゃないものに明確な間違いがあるならば、本来は日本語が最低限理解できる人間は全員正解ができるはずだ。知っている、知らないの問題ではないので、日本で日常生活が問題なく送れている人は、普段から相手の言うことをかなりの割合で問題なく解釈できているということ。全員100点をとれていても不思議じゃないのに、それが可能な人はほとんどいない。満点をとれないどころか、苦手という人すらいる。社会みたいに答えがちゃんと教科書何ページのここに載っていて、そこを見れば全員が納得するわけじゃないのです。

 

解釈ってのは、出題者が考案したものが1つ存在するということであって、それ以外に存在しないというのはおかしいと思うのです。解釈は2通り以上あって良いだろうと思う。で、どちらが、またはどれが最も相応しいか?を決めるのが問題になる。つまり、客観的に1番妥当だと思われる解釈を現代文では選ばないといけないわけだが、1番妥当ってどうやって決めるのか?数値で表せないものをどうやって妥当なんて決めるのか?やるとしたら多数決しかない。多数決で決まったものが正解となるわけではないが、一応「客観的」というお墨付きは得られる。ただ、実際の受験で、多数決で1番多かった答えに正解が決まるわけじゃない。逆にいうと、出題者が用意した正解が1番選ばれなくても、それが正解になる。1番客観的に正解じゃない選択肢がそのまま正解になることもあるということ。

 

個人的にちょっと酷いなと思ったのが、「国語嫌いへの処方箋〜「現代文」に対する3つの誤解〜 | 株式会社YOSCA公式ブログ」に書いてある以下の文章です。現代文には正解が1個決められるという根拠を述べたらしいのだが、

 

現代文の問題は誰が見ても納得出来るような答えが一つだけ出るよう作られています。

「この時の花子さんの気持ちを答えなさい。」という問題ってありますよね。「えーそんなの作者しか知らないんじゃないの。」って言う人がいますが、全くそんなことないです。そもそも、ここで「作者はどういう思いを込めて花子さんを登場させたのか」なんて考えたらいけないんです。

フランスの哲学者、批評家であったロラン・バルトは「作者の死」という概念を提唱しています。すごく簡単に言うと、作品が発表され、あなたが文章を読んだ時点で、作者の存在というものを全く考えに入れてはならない、ということです。作者がどう考えたかなんていうのは作者に直接聞かない限り知るのは不可能。だから、あくまでその文章から客観的に導き出せばそれが答えです。

問題を解く時、作者を考えに入れることはしませんが、更に言えば読み手である”あなた”も葬り去ります。問題文を読んで納得した、感動した、笑えた、嬉しかった、そんな感想を現代文は求めていません。答えは解答する人の考えに依存せず、徹頭徹尾、客観的に文章から導き出します。だから答えは、誰が見ても納得出来るようなものに定まるのです。

 

これは小説の問題のことなんでしょうね。評論と違って、小説問題はまだ作者が答えを決める余地があると思う。要は登場人物の気持ちを問う問題があれば、作者が1番近いと思う選択肢を正解にする。それははっきり言って間違っていないと思うのだが、この人の言うことは違うらしい。結局、この人の言うことは根拠がないのですよ。「客観的に決まる」とか言っているけど、そもそも答えを決めるのは出題者であって、そこに主観が入らない根拠はどこにある?そして、受験生の解答はどうせ主観が入って違うとか言うのでしょう。客観的に導き出せれば正解になる。というのは良いとしても、それを出題者ができている保証はどこにあるの?客観的な選択肢が正解になるとか言うならば、そもそも出題者らが少数で正解を決めるべきじゃないだろうし、正解選択肢以外の選択肢に解答が集まれば、そっちに正解を変えるべきなんだ。「客観的」と言っているが、この人の主張はかなり主観的に思えてくる。「誰が見ても納得の行くように定まる」と最後に書いているが、だからほとんどの人は満点はとれないだろうが。誰が見ても納得いくように答えやその根拠が定まるならば、ほぼ全員が満点近くとっているはずで、現代文が苦手な人なんかいるはずがない。となると思うのだが、この人の言っていることはむちゃくちゃ矛盾してますよ。

 

私がある予備校に通っていたときに、ある現代文を専門なのか?分からないが教えていた講師の人が「現代文は、選択肢の中で1番瑕(きず)がないものを選ぶ」と言っていたのを覚えています。つまり、本文と照らして1番乖離部分が少ないものを選ぶという認識なんでしょう。現代文の選択肢というのは、全部が微妙な濃さのグレーで、より白に近いグレーを選ぶという科目みたいなのだが、そんなもの人の感覚によって、これが1番白に近いグレーだろというのは変わるはずで、それが正しい認識だと思うのです。どの選択肢がどれだけ乖離しているのか?なんて感覚の問題なんじゃ?と思う。これも数値で表せるものじゃないので、Aの選択肢とBの選択肢があって、両方とも何か本文と違うわ。というのが分かったとしよう。でも、どっちがより本文とずれているなんてどうやって測るのよ?この講師によると、正解選択肢も本文と乖離が全くないわけじゃない。そうなのだ。つまり、正解選択肢にも瑕はある。というか、正解選択肢を誤答選択肢と迷わせるようにしないと、みんな正解してしまうから、現代文という科目は入試として成り立たないという事情もある。だから、そう考えるとしっくりくる。正解選択肢もあれ?って思う部分はあるのです。ただ、そうなると何度も言っているように、正解選択肢の傷の量が明らかに誤答選択肢の瑕の量と違う。くらいのものにしないといけない。ただ、そうすると、ほぼ全員が正解してしまう。だから、微妙な量になるように、迷うように調節しているのです。

 

ただ、迷うように調節すればするほど、正解選択肢と誤答選択肢の瑕の量はどんどん近くなる。例えば、時計を持たずに外を適当に歩いてみた。その時間が30分と1時間、どっちが近い?というのは感覚で分かると思うが、30分と40分だったらどっちが近い?と聞かれたら困るでしょう。客観的に見て、正解選択肢の方が瑕が少ないといいづらくなる。今、実際に起きているのがこれでしょうね。客観的に迷うように選択肢の瑕の量を調節しているのならば、客観的に正解が1個に決まる余地はそれだけ少ないということです。現代文の解答状況を以前見せてもらったことがあるのだが、正解選択肢に集まる解答の割合は多くても半分くらいです。少ないと2割くらいのときもある。5択くらいの問題でね。つまり、どんなに割合が高くても半分くらいならば、残り半分は正解選択肢の文章が客観的に1番妥当とは思えていないわけ。現代文にいくら「客観的」という言葉を持ち寄っても、その解答の集計状況から「客観的に」正解選択肢が正解といえる状況は存在しないのです。私に言わせれば、現代文っていうのは、出題者の独りよがりだと。他の解釈を、自分が考えた解釈以外を一切認めないとんでもない科目だと思うのです。出題者は何故これが正解になるのか?を問われたときに説明はするだろう。その説明は一応的を射ているかもしれない。ただ、じゃあ誤答選択肢は何故いけないのか?これでも良いんじゃないの?という受験生からの質問に答えるとしたら、ほとんどが揚げ足取りにしかならないと思う。揚げ足取りで良いのであれば、私も今なら現代文教師に反論できる自信がある。余裕で論破できる自信がある。だから、私は現代文を捨てる決断をし、現代文という科目やそれを教えている人たちにあまりい印象は持っていない。私は現代文をほぼ捨てて英語と選択科目だけに注力しましたが、それが正解だったか?は分からない。今、私が受験生だったとしても、現代文を真面目に勉強する気は起きないでしょうね。この疑問が拭い去れない間は。

 

 

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