就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

国は子供を経済発展や制度維持のための道具としてしか見ていない

【スポンサードリンク】

「子供が戦争の道具にされている」という批判がたまにある。戦地なんかっでは、子供というか、若い人たちは兵士として重要な役割を担っている面もある。それは国に都合の良いように扱われているという見方もできるかもしれない。日本は現在そういう状況にないからあまりピンとこない面もあるが、日本でも同じような状況はある。それは日常においてです。日本の場合も、子供が道具として扱われている面はある。道具という言い方が適当か?どうかは分からないが、国はそういう目で見ているのではないか?と思われます。以前「同性婚は少子化に拍車がかかる!←国のために子供を産むわけじゃない - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事で、同性婚を認めてしまうと、子供を産む夫婦が減ってしまうのではないか?という懸念を持っているということをある自民党の議員が言っていたわけです。国にとって、子供の数が減ると困るというのは、理屈としては分かるが、それを理由に同性婚を認めないというのは、あまり酷い話じゃないか?と思います。

 

国がどうして同性婚に反対するか?というと、子供の数が減ると困るからで、子供の数が減ると国のあらゆる制度において歪が出てくるから。それは国の体制を維持するという理由だけ見れば、子供の数が減るのは困るというのは理解できるわけだが、そういった理由で国は子供をたくさん産ませようとする。ただ、生まれた子供が安心して暮らしていけるか?はまた別問題になってしまっているのです。子供がたくさん生まれれば、将来を背負う人たちの数も増えるし、その中に優秀な人が含まれる可能性が増える。社会保障制度だって維持できる。国にとっては子供はたくさん生まれたほうが良い。で、実際に生まれた子供はどうか?そこをあまり考えている人はいないのではないか?残念ながらこの国では国民が安心して暮らしていける社会にはなっていない。それどころか、格差問題とともに貧困問題すらある。それは放置されているわけではないが、改善の見込みはない。ブラック企業が放置された世の中で、就職率が上がって良いことだみたいに喜んでいる人は、ブラック企業に就職してその後の人生がどうなるか?分からない人を増やしていることになるのに気付かないのでしょうか?

 

この状況を踏まえて、少子化政策なんかをする国というのは、完全に国発展のための道具としか子供を見ていない。子供というか、将来は大人になるのだから、人間を道具として扱っている。以前、派遣切りが問題になったときにテレビニュースで「人が道具として扱われている」と誰かが答えていたのだが、まさにそれと同じような状況だと思うのです。必要なときに雇って必要なくなれば、ポイ!と捨てられてしまう。派遣で働いている人をそうのように例えることも可能でしょう。実はそういう側面は派遣だけではないということです。ある意味国民全てが日本という企業によって、そのようにぞんざいに扱われている。他の国もそうかもしれないが、日本の場合で言うならば、日本の発展のために貢献してくれるような人、そういう人は問題なく暮らしていけるが、そうじゃない人、物理的に働けない人はともかくとして、働きたくない人、働きたくても働けない人たちはほとんど見捨てられている。というか、そういう人は先ほど言ったような派遣などの不安定な働き方で一応なんとか食いつなげるか、ホームレスやネットカフェ難民か、ニートになるしかない。

 

彼らの多くは恐らく客観的な最低限の生活が送れていない人たちでしょう。日本では国民全員が最低限の暮らしをするのは不可能な状態になっている。運が悪ければ誰しもそういう悲惨な生活をしなければならないときがくる。それは国も認識している。でも、国は相変わらず国を支えるため、ずっと反映を維持するために必要な労働力を確保するために、子供を産ませようとする。つまり、今新たに生まれた子供の中で、20年後、30年後、日本を支えてくれるような人はそれなりの対価と共に満足な生活が送れるかもしれない。逆にそうじゃない人は悲惨な一生を送るかもしれない。その割合は分からないが、後者の人間は確実にいつの時代も存在する。後者のような人たちへの支援は基本的にはあまりない。あっても受けられる保証はない。そういう現状を認識していながら、国はどんどん世の中に新たな人材を投入させようとする。今の日本のシステムというのは、国にとって必要な人材は生活が保障されるようなシステムで、そうじゃない人は見捨てられてしまう。つまり、都合の良い人は一応優遇するが、そうじゃない人は勝手にしろ!とかなり乱暴な姿勢も思える。

 

子供が新たに生まれれば、国にとって都合の良い人だけじゃなく、足手まといにしかならない人が生まれるのは当然だが、それを生ましたのは誰だ?国でもあるでしょう。よく見捨てることができるな。と思う。見捨ててなんかいないという人もいるかもしれないが、私にはそうは思えない。少なくとも経済的弱者に対する諸制度は不十分だと思うし、何よりもベーシックインカムのような制度はない。つまり、確実に誰もが日常的な生存は保障されておらず、運が悪ければいつ死ぬか分からない。そういう非常にリスクのある空間にどんどん人を動員させようとしている。実際に動員させているのは親だから、その親もリスクという意味では認識すべきで、そのリスクが顕在化した場合には、ちゃんと世話をすべきだろうとは思うが。ただ、責任としては個人的には国の方が重いと思う。国が子供というか、人間を道具として扱っていないというのであれば、自らの政策によってこの世に生まれた人たちが問題なく暮らしていける社会を作るべきでしょう。ただ、それは現実問題無理でしょう。無理なのに、子供を産ませて、国にとって役に立たない人は放置という今の状況を踏まえるならば、もはや国は子供を道具としてしか扱っていないと見られてもしょうがないと思うのです。そして、国民の中に少子化は問題だと叫んでいる人がいて、その人がその結果生まれた子供はどうなるのか?まで考えていないとしたら、同じく非常に無責任な発言のように思います。その人も結局は、自分たちの利益優先で子供が少ないことを憂いでいるのだろうから、仮に子供が増えて良かった良かった!とだけ言っているのならば、やっぱり道具としてしか見てないんだと。その子供たちはその後どうなるのでしょうかね?考えたことありますか?

 

 

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

  • 作者: 阿部彩
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/12/16
  • メディア: 新書
  • 購入: 3人 クリック: 87回
  • この商品を含むブログ (24件) を見る