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「誰かの平穏な生活は誰かの危機で成り立っている」が真理だと思う

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80歳の高齢者がバイクに乗っている途中、いきなり子供が蹴ったボールが現れ、それによって転倒し、その後亡くなってしまった事故についての裁判が行われ、一審、二審とも被告の子供の両親は約1100万円の損害賠償の支払い命令の判決を受けたらしいのだが、この度最高裁はそれを覆して、親に損害賠償責任はない。との判決を下した。こんな事件があったんだ!?と。私は最近になるまで知らなかったが、実は起きたのは10年くらい前らしい。当時の子供はもうある程度大人になっているということですよね。この事故は当時、学校のグラウンド内でサッカーをしていて、蹴ったボールが学校の敷地を飛び出してしまい、それによってたまたまこういう事故が起きてしまったというのだ。訴えられた親やボールを蹴った子を責める声はほとんど聞こえない。というか、むしろ訴えた遺族側やバイクに乗っていた高齢者の方を責める声すらある。私の率直な意見はどちらも責めるつもりはない。むしろ問題があるとすれば、子供が蹴ったボールが外に出てしまう事態を作った学校側じゃないでしょうか?それを完全に防げる措置がとれたのか?というのは疑問だけど、普通に遊んでいただけならば、学校側にだって外にボールが出るかもしれないという予見はできるはずでしょう。

 

そういう予見を持って塀や網やネットなどを取り付けるべきだと思う。今回の学校の状況はちょっと分からないから、確実に学校の整備が足りないとは決め付けられないけど。ただ、亡くなった高齢者や遺族にほとんど罪はないだろう。中には「金目当て」という信じがたい書き込み見られるが、亡くなった側の人間やその遺族に客観的に過失がないような場合、つまり過失相殺に当てはまらないような状況の場合は、当然訴えるに決まっている。客観的に見たら訴える先の親や子供にも責任を押し付けるのは厳しいが、遺族側としても、「仕方ない」で済まされたらたまったもんじゃない。という気持ちは正直理解できる。1つ思うのは学校で起きた事故である以上、訴えるべきなのは親ではなくて、学校だったんじゃないか?とは思うけど。こういう事故は実際「仕方ない」と済まされがちです。確かに、仕方ない部分も多いと思う。少なくとも親、子供を責めるに足りる状況とは思えない。しかし、すでに述べたように仕方ないで済んでしまったら、当然遺族側も納得がいかない。つまり、運が悪ければ人が死んでもしょうがないということになる。

 

じゃあ、自転車を運転していた子供が、たまたま人を轢いてしまい、その人が亡くなった。これもしょうがないで済まされることになる。この場合は、親に監督責任が及ぶというのが通常なんだろうけど、親がいつでも監督できるわけがない。子供が自転車を運転するときにいつでも付き添って一緒に自転車を運転しろというのか?無理でしょう。今回の蹴ったボールがたまたま外に出て、人を死なせてしまった事故も当然、親や学校に完全に監督する義務をつけるのは無理だろう。ただ、裁判長は「日常的行為の中で、予想できない事故」という見方をしているが、子供や学校からしてみれば、当然遊んでいるボールが外に出たら、危ないというのは予見がつくはず。ましてやボールが現実的に外に出てしまうことが十分予想できるくらいにしか防護ネット等を張っていなかったとしたら、それはどうなんだろう?とも思う。自転車の事故の場合は、親に損害賠償責任が生じているようですが、今回は親にはその必要はないとの判断らしい。

 

個人的には、そこがあまり納得がいかない。自転車で人を轢いてしまったらダメだが、ボールで遊んでいて、それが外に出て人を死なせてしまった場合は問題ない。どちらも遊んでいる本人からしたら、運転をミスるか、蹴り方を間違えるか?(そういう児童がいたらボールが外に出て危ないという学校側の認識も含む)したら、他人に危機が及ぶというのは予想ができると思うのだが。だから、自転車の方も損害賠償責任がないという判決なら合点がいくけど、何故差が出るんだろうか?つまり、自転車の場合は親が、今回の事故でいえば学校側がそれぞれ監督責任の地位にあたるのではないか?と思うけど、それぞれで判決が違うのが違和感がある。今回訴えられたのは学校ではなく、親だからしょうがないのかもしれないけど。何故、学校じゃなく親を訴えたのか?については、親の監督責任を認める判決が多くでいていたら、親を相手にした方が損害賠償を認めてもらいやすいと思ったのではないか?と報道されています。どちらのケースにおいても、損害賠償を支払うのは酷のようにも思える。それはこういう事故を完全に防ぐには実際、子供を徹底的に管理する必要性が生じるから。学校や親がいちいちそれらを監視するのは不可能(防護ネットを張る程度ならジュウッ分可能だろうが)で、ならば自転車乗るの禁止、校庭で遊ぶの禁止といった措置をとるしかない。ただ、それで良いのか?というと、多くの人は肯定しないだろう。

 

私としても非常に難しい問題だなと思います。実際、公園などでは危険だからという理由で、ボール遊びなどが禁止されているところもあります。これはしょうがないと思う。本当に危ないですもん。でも、それを言うなら、学校の校庭でも危ないよな?となっても良いような気もするが、公園で自由に遊べない以上、せめて校庭では遊ばせてほしいという願いもあるのかもしれない。ただ、じゃあこれが校庭内の死亡事故だったらどうなっていたのか?蹴ったボールが別の児童に当たり、亡くなってしまった場合などには、どうするんだろう?と思う。私は野球が好きでよく見ているのだけど、ピッチャーのデットボールが打者に当たり、打者が怪我して長期離脱するケースがたまにある。わざとじゃないからと投手を責めるファンや選手はまずいないが、実際、この長期離脱する選手には特に賠償はない。当てたピッチャーにも特に出場禁止などのペナルティもない。1人大きな被害者を生み、その選手が主力選手だった場合、チームにとっても大きな打撃になってしまう事実は間違いなくあるが、「仕方ない」で済まされるのが妥当なのか?という問題は残る。一選手の過失により、一選手の人生や所属するチームの命運を狂わしかねない事故ですからね。

 

冒頭にも言ったが、今回の事故は親や子供の立場から考えると、責任を押し付けるのは酷な気がする。学校側の責任はやはり一部残ると思うけど。ただ、亡くなった側の遺族からすれば、仕方ないで済まされたら困るというのも理解できる。こういう事故を亡くすには、学校でも公園でもボールを使った遊びは一切禁止するしかないだろう。今秋のような事件は防護ネットさえあればなんとかなったかもしれないが、校庭の中の事故は防げない。親が自転車に乗る子供を常時監視するのが不可能なように、先生らが校庭で遊んでいる生徒全員を監視するのも無理だ。子供を自由に遊ばせるのならば、校庭の事故は防げない。逆に遊ぶの一切禁止など、そういうことをすればこういう事故は2度と起きないかもしれない。ただ、世論としてはそれはダメだろうという意見になると思う。子供の健全な育成を阻害するという理由からでしょう。子供の健全な育成と我々の平穏な日常生活は両立できない。という非常に難しい問題です。誰かの平穏な生活は誰かの危機によって成り立っている。それは大人になれば、資本主義社会の惨さという形で牙を向いてくるのだけど。誰かの犠牲によって、誰かの平穏が保たれるという事実は間違いなくあるが、それで良いのか?それが正しいのか?それはしょうがないのか?という問題について、今後も考えていきたい。

 

 

不幸な認知症 幸せな認知症

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