大学の卒業論文の提出や発表の時期が近いかもしれない。大学生は本当に大変な時期でしょう。私は卒論を書かずに、卒業できたのでそれは良かったかもしれない。ただ、先日東京大学の教養学部の学生が定期試験のレポートのコピペで済ましている例が発覚し、単位取り消しになったというニュースがありました。しかも1人や2人だけじゃないらしい。75%が単位取り消しに遭ったというニュースでした。学部長は「学問倫理上に許されない行為」と糾弾したらしい。レポートだけじゃなくて、卒論とかもコピペで済ます学生は増えているらしい。私はレポートは何度も書いたことがあるが、当然コピペはしていない。何でしていないか?というと、そんなことをした単位がとれない可能性があるからです。理由はたったそれだけ。単位がとれる保証があるなら、コピペをしていたかもしれない。ということで、私はコピペについていえば、コピペを理由に単位を取り消す必要は無いだろうと思います。
それはコピペの何がダメなのか?理解できないからです。コピペはネット上にある他人の文章を許可なく(許可をとっているケースも稀にあるかもしれないが)転載する行為で、ある種の泥棒みたいなところもあるが、基本的に著作権の問題は私的利用の範囲であれば、そこを咎められる理由はない。ネット上にある画像を無断で自分の携帯電話の待ち受けにしたって良いのです。じゃあ、今回の場合はどうか?というと、レポートや卒論の場合は、公に発表するものではなく、それを見るのは書いた学生本人とそれを採点する教授のみでしょう。卒論の場合には一部の学生も見るかもしれないが、営利目的でなければ、見るのは少数だ。外部に公表するケースはまずない。ただ、大学によっては本人の許可なく学生の書いた論文をホームページ等に載せる例があるらしいが。論文それ自体の所有権は大学側にあっても、中身の著作権は学生にあるので、これは法的には許されないはずなのだが、こっちはなぜか無視されるというね(笑)そもそも著作権を侵害しているか?に関しては、著作権者が訴えて、裁判をしてみないと分からない。ただ、世の中にはそういう存在を無視して越権行為をしたがる輩が多い。著作権侵害の条件をきちんと知っているのか?も怪しい人たちが、著作権侵害だ!と騒ぐ光景は、幾度となく私は見てきた。
実際、学生の卒論がコピペやパクリだったとして、著作権的に問題が生じるケースが往々にあるとは思えない。つまり、コピペは他人の文章を許可なく転載している=学問倫理上許されない行為とする、東大の学部長の主張は全くもって意味が分からないのです。著作権は教育機関が授業などで使う教材などの目的で、特定の著作物の複製をすること、配布することは認められているみたいです。これは授業をする側、受ける側どちらが行っても良いようです。つまり、学生の卒論やレポートのコピペやパクリの問題というのは、どちらかと言えば与えられたタスクにパクリやコピペで答えたことになるのか?という点になるでしょう。この東大の学部長は法的に問題だからとは言っていないので、法的に問題ない=国が認めている行為を、大学が独自に認めないならば、相当な理由がなければいけないが、ご覧の通りアバウトなことしか言えない(笑)どうして倫理的にアウトなのか?この学部長抱いている倫理はどういう倫理なのか?よく分からないが、論理的に考えるって力がないんですか?
著作権的に問題ない行為を倫理から批判して、さらに単位まで取り消すというのは、さすがにやり過ぎだろう。実際、コピペがダメな理由として、著作権などの法律を持ってきている人は、私が調べた限りではほとんどいない。つまり、法的に問題がある行為と言えない可能性が高いことは多くが認めているのだろう。ネット上のある掲示板には、学生の書いたレポートを隅々まで読むのが面倒で、だから、コピペを理由に単位認定不可と決めたんじゃないか?という意見もある。それが真実か?は分からないけど、単位が与えられないケースというのは、レポート課題に対する学生の答案が内容的に間違っているケース、整合性がとれないケースであるべきだと思う。つまり、適当にコピペをした結果、全く関係のない文章ばかりを集めてしまい、内容的におかしくなった場合には、それを理由に単位を与えなかったり、取り消すのは良いとしても、内容の整合性云々の前に、コピペを理由に単位を取り消すのはちょっと信じられない。コピペを理由に単位を取り消すのであれば、当然コピペの悪質性について説明をしなければならないが、この学部長の言い分は、結局は学問倫理に反しているという、非常に根拠として曖昧なこのとしか言えていない。だから、納得いかないのです。誰の目から見ても明らかな客観的視点から説明してほしいです。それができないかもしれませんがね。
実際、レポートの場合にはいろいろ種類があるけど、ある程度の正解に近いものが存在するレポートの場合には、当然ネットまたは本を参考にレポートを書き上げていくことになるでしょう。これは卒論も同じです。何かを参考にするってことは、自力の知識では十分なものが書けないということです。それは自分が今持っている知識では、卒論やレポートの問いに対する答えとして確実に正解といえるものを提示てきる自信がないから。つまり、参考文献を使う学生というのは、その参考にしたものに書かれている内容と変わらないように卒論やレポートを書くはず。それは別にコピペをしないとしても。参考にしているものはその学生にとっては正解が書いてあると思うからこそ、それを参考にして書くことになる。それと内容が違ってしまえば、当然減点されたり、単位がもらえない可能性があるから。つまり、多くの卒論やレポート課題において、コピペをしない学生であっても、やっているのはリライトという、自分の言葉に置き換える作業になります。参考文献を全く見ずに卒論やレポートを書き上げる学生というのは、そういないと思うから、ほとんどの学生はこのリライトをやっている。
しかし、すでに述べたようにリライトというのは、元の文章と内容は変わってはいない。というか、基本的に変わってはならないように書き直す作業です。すると、内容が変わらないのに、あえて自分の言葉に書き直す意味はナンなのだろうか?自分で書き直しても、コピペしても内容は変わらない。わざわざ手間をかける意味が分からなくなってくる。このリライトはニュース等で問題になることはない。ならば、コピペも問題ないということになってしまう。この2つの差は文章を書くときの手間のかけ具合の差でしかない。内容は変わらないのだから。コピペだと、理解していないという批判もある。ただ、それはコピペとは関係ないと思う。理解しているか?否か?というのはコピペをする以前の問題であり、参考文献の文章を読んだときに試されるのが理解力なのです。
参考文献を見つけて、これを実際に参考にしよう!と思った時点で、理解力の有無が試されることになります。その参考にしようと思った文章が、本当に卒論やレポートの問いに対する答えになっているのか?その判断こそが理解力であり、リライトか?コピペか?というのは、文章にする際の手段の違いでしかないので、理解力とは無縁なのです。コピペをしないで、自分であえてリライトして書くとなれば、文章を書くのが下手で理解力がないと判断されることもあるだろうから。つまり、コピペを避けたからこそ、内容的に元の文章と異なってしまい、理解力がないと判断されてしまうことがあるということです。コピペだろうがなんだろうが、このレポートの問いに対する答えはこの文章で問題ないと判断した時点で評価すべきなのが理解力なのだ。実際、問題として糾弾されないリライトだって、コピペとの違いは提出するための文章を書くときの手間のかけ具合の差なのだから、その前段階で試される理解力が及んでいない可能性もある。すると、コピペが理解していないからダメというのならば、リライトも当然ダメであって、レポートを書くときに参考文献を見ては一切いけないことを意味する。
実際、明星大学のホームページ(コピペは堂々とやれ | 明星大学 人文学部日本文化学科)には以下のことが書かれていました。
>「なぜコピペは悪いのか」と学生に尋ねてみると、「答えを見ているから」という答えが返ってきます。しかしこれは、教員にとって大した問題ではありません。
大学の学問は、高校までのように、あらかじめ定められた一つの答えにたどり着くためのものではありません。少なくとも文化について考える学問では、そもそも絶対的な答えなど、世の中にはほとんど無いのです。これはコピペうんぬんよりも、そもそも大学の学問とは何か、真実を追究するとはどういう事か、という問題です。正しい答えがあると決めてかかっている所からして、おかしいのです。
では、コピペが悪いのはなぜか。教員側からの答えは、「他人の意見をあたかも自分が考えたかのように書いているから」というものです。
大学での学問の目標は、今まで誰も明らかにしていない事実を明らかにする事、今まで誰もが間違って考えられていた認識を正す事です。極端な言い方をすれば、今までに他人が一言でも言っている事は、後から言っても、何の価値もありません。我々研究者の場合、もしすでに言われている事をあたかも自分が思いついたかのように言えば、それだけで研究者生命が断たれかねないのです。論文盗用問題が新聞などで報道されているのを見たことがある人もいらっしゃると思います。
この文章を読んで、「この人頭大丈夫か?」という印象しか生まれなかった。他人の意見を自分が言ったように書いているのがコピペが悪い理由となっているが、だからそれの何が悪いのか?という説明がないのだ。東大の教授と同じで、理由が理由になっていない。すでに世の中に存在している意見は価値がないということも言っているが、それは価値の有無であり、善悪ではありません。価値がないもの=悪ではないでしょう。世の中に多数存在するものが価値はないは分かるが、それが悪いってどういう理屈なの?善悪の話がいつの間にか価値の有無にすり替わってしまっているんですよ。それに「コピペが悪い」という意見そのものも大勢がすでに言っているはずなのです。ネットで検索すれば、コピペが悪いということやコピペが悪い理由などは見つかりますし、この人によりも先に言っている人がいたと思うんですが、じゃあ、この人の意見も価値はないですし=悪ってことで良いですか?(笑)実際、明星大学のホームページ以外でもコピペが悪いということ、そしてここに書かれてある理由に近いものは別のサイトで見たような気がする。さすがに価値がない=悪という暴論は見た記憶はないが。
そして、すでに他の人が言ったことと同じことを後から言っても価値がないとしているが、それはおかしい。全ての情報に全ての人間が平等にアクセスできるわけではない。例えば、ある有名人が言ったとされる名言を、名言を集めたサイトから初めて知る人もいる。名言を集めたサイトはまさに1度誰かが言ったことをコピペしただけだが、そのサイトで初めて知るようなケースはよくあるだろう。特定の情報に全員がアクセスできるわけじゃないのだから、過去に誰かが言ったことと同じことを再度言ったとしても、それに価値は間違いなくありますよ。ドラマとか映画の再放送とかはまさにそうだと思うけどね。内容なんかまったく変わらないのに、見る人がいるわけでしょう。過去に言ったことと全く同じことを再度言ったとしても、その意見にアクセスできる機会を間違いなく増やしているのだから、どう考えても価値はあると思いますが?その意見自体が的外れなもので価値がないから、2回目以降に言った同じ意見も価値がないとかならば分かりますけどね。そもそもコピペをしようが、しまいが、学生は参考文献を見るのであって、結局コピペをしていないものであっても、中身は他人の意見のパクリでしょう。文章を変えているだけであって、他人の意見を拝借して、リライトしている事実は変わらないのよ。文章の構成が違うだけで、意見の根本や中身は変わらないわけだ。コピペじゃない文章も、ほぼ全部が他人の意見を自分の意見のように言っているという状況は変わりません。参考文献を一切見るな!全て自分の頭で考えろ!ってなら分かるが、参考文献を見るのを許容したら、そりゃ他人の意見を自分の意見のように語る状況は必然的に生まれますよね。それに授業に出ていれば、教授の話も参考にするでしょ?他人の意見を自分のように書くのが一切ダメなのであれば卒論もレポートも書けません。
これはレポートだけではなくて、卒論も同じだが、コピペをする学生が理解していないか?というと、決してはそうではない。ネットにある文章というのは、多くの人が指摘しているように、本と比べても情報としての信用が薄い。ということは、ちゃんと内容の正誤について、正しい判断力や知識を持ってないと、デタラメの情報をコピペしてしまい、当然その場合には単位は貰えない。提出したレポートがちゃんと内容的に合致しているものであれば、その学生はそのレポート課題と回答について理解しているというか、ちゃんと内容の正誤を判断できているということであり、ちゃんと与えられたタスクには正しく答えたということになると思います。そう、理解しているケースも十分あるということです。文系の場合は、理解力よりも暗記力の方が重要な授業が多く、真の理解力を試される授業がどれだけあるか?というのが疑問ですけどね。全てのレポート課題がコピペOKとは言わないが、今回紹介したようなケースでは、私はコピペ容認派です。東大のケースで問題になったレポート課題が一体どういうものだったのか?はちょっと不明ですけどね。東大の学部長は、レポート課題の詳細と学生の書いたレポートを比較して、どこがどうダメなのか?もっと詳しく批判してもらわないと、やっぱり納得できないですね。

文は一行目から書かなくていい ? 検索、コピペ時代の文章術
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