「差別」はいけないことという印象が皆さんの頭の中にはあるのではないでしょうか?差別といって一口に言っても、いろいろなものがありますよね。特に世間からタブー視されている、非難を浴びやすいのは「人種差別」です。肌の色の違う人が沿うじゃない人と違う対応を受けると、人種差別だ!と声を荒げる人は非常に多いのではないか?と思います。最近、フランスでまた人種差別に関するニュースが報道されており、黒人男性が電車に乗ろうとしたときに、それを人種を理由に妨害された。という出来事が起きたみたいです。人種差別は国際的な問題にも発展しかねないことからも、非常に多くの反応を呼ぶ。それ以外にも差別と思われることは普通に起きていると思うのだけど、それらはスルーされていたりもします。ということは何でしょうか?許される差別とそうじゃない差別があるということでしょうか?
人種差別はダメだが、他の差別は良いものもある。そういう風に受け取ってしまいますね。例えば、男女差別です。これもいろいろなものがあるけど、例えば、会社に勤めているときに男性は短髪、女性は長髪もOKというのがだいたいの就業規則でしょう。これは差別でしょうか?差別といえば差別のようにも思える。ただ、民間企業は当然お客さんのご機嫌取りをしないと経営がやっていけない。だから、お客さんが不快に思う格好や身なりをしていることは、当然経営にかかわる。だから、それぞれでお客さんが不快に思わない格好や身なりを強制するというのは、ある意味合理性があるし、仕方ない部分もある。でも、公務員はどうでしょうか?お客さんのご機嫌取りをする必要あります?そりゃ、建前上公務員は国民への奉仕者だから、住民のために働くという性質上住民の不快な行為は慎むべきというのはあるのだけど、だからといって差別的な目や偏見の目を正当化するのは違うでしょう。
男性が短い髪の毛、女性は長くても短くても良いという見方をする国民はどう見ても、偏見なり差別なり、そういう見方をしている。と捉えられてもしょうがない。そして、そういう人が目の前に長髪の公務員が現れたら、どう思うのでしょうか?絶対に不快でしょうね。でも、その住民を含めて、多くの人が不快に思うのは、どう見ても偏見であり、差別でしょう。そして、公務員という仕事の性質上、お客さん(この場合は住民)のご機嫌取りをする必要はない。しなくても公務員は倒産の心配はない。そうなると、先ほどの民間企業の例でいうような合理性はないのです。公務員は住民のために働くのであるから、公務員として不適切な格好や身なり(住民が嫌がるような格好や身なり)をすべきじゃない!という意見もあるかもしれないが、明らかに差別や偏見の目を持っている人たちの声を鵜呑みにして、差別や偏見を助長していくのが公務員としてあるべき姿というのは、些か納得できない。そういう差別や偏見の助長は、実際に公務員の職場でも行われているようだけど。
だから、合理性の有無で許される差別とそうじゃない差別が分かれるのではないか?と私は思います。そうなると、民間企業の男性に対する差別は許されるが、公務員は許されないとなります。さて、では、最初に述べた人種差別のケースではどうでしょうか?今回、乗車を妨害したのは、別に鉄道の職員ではなく、同じ乗客だったらしいのです。そもそも乗客に同じ乗客の乗車を妨害する権利はないはずなのだが、今回はそれは無視して、今回の妨害行為が人種を理由とするものだけに限って考えていきたいと思います。例えば、特定の人種を名指しして、その人種が嫌いだ!と公言したら、これは人種差別と言われてしまうでしょう。じゃあ、若者が高齢者を「老害」と言って非難することがしばしばありますね。それも合理性があればまだしも、そうじゃないケースもある。逆に国は若者を冷遇し、高齢者を優遇する。これもあえてそうしないといけない必要性がないのであれば、してはいけない差別でしょう。これらはどうでしょうか?というか、これと私は一緒だと思うんですけどね。人種差別を非としている人も、当然誰かを差別するような言動をしているはず。人種はダメで、他は良いの?よく理解できない。
特定の人種が嫌いな人というのも多分それなりにいると思う。ただ、それを責めてもしょうがないと思うのです。さすがにそれを今回のフランスの出来事みたいに言動として現してしまったら問題だが、心の中に留めておく分には問題ないでしょう。皆さんだって、嫌いな人がいるはず。特定の人種を嫌っている人も、対象を嫌悪するメカニズムとしては一緒だと思う。嫌いな人が生まれてしまうのは、本能に近いものであり、自分の努力や匙加減ではコントロールできない。それはしょうがないのです。だから、人種差別をなくそう!といった運動も行われているようだが、それは無意味ではないでしょうか?それは人を嫌うのをなくすことと同義であり、人間が人間である以上不可能だし、それが可能になれば、それはもはや人間じゃない。ロボット同然の生命体だ。人が人を嫌いになるということは、ある意味人間であれば当たり前の行動であり、それを抑止しようとすることにどれだけの意味があるか?世界平和が不可能なんて記事を以前書いたが、それは人間に感情があるからなのです。だから、先ほどの公務員の例では、男性の長髪に不快感を示す住民がいたって問題ないのです。それはしょうがない。問題なのは、そういう公務員をなんとかしろ!と、直接声に出して文句を言ったりするケースです。表面化しない差別的な目はあったってしょうがないし、あって良いと思います。それすらダメというのならば、もはや人間を辞めろ。と言われているに等しいからです。

偏見と差別はどのようにつくられるか
- 作者: ジョン・G.ラッセル
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