昨日のことなんですけど朝起きたら、フジテレビでスマホで板書をする学生が増えているという話題が出て、出演者が議論していました。私はスマホで撮影したことはないけど、今そういう学生が増えているというのは知っています。彼らは自らの判断でやっているのであって、それが特別な迷惑にならないのであれば、彼らの自由だろ。という私のスタンスです。出演者の中では、泉谷しげるさんが猛反対で、松本人志さんが中立っぽい感じで、指原莉乃さんと古市憲寿さんが賛成って感じぽかったです。まあ、分かりやすく年齢で分かれた感じですね。泉谷さんの話を聞いていると、自分の手で写さないと勉強にならない!とか、板書をするのも勉強とか凄い語ってたけど、今でいうところの「老害」扱いされるんだろなー。と私は冷ややかな目で見ていました。スマホで撮影する学生が増えた理由のうち、1番大きいのは単純に効率化の問題でしょう。時間がもったいないと言う話だと思います。
板書をスマホで撮影する学生の是非を問う。その場で坂書写しに集中しちゃって先生の話を聴く余裕ない…ということを阻止できるからいいじゃん。それにスマホ撮影はあくまで方法なんだから、その生徒がその目標達成するための効率的なツールとして主体的に使えてれば問題ないよな。 #ワイドナショー
— LAN (@gblan120) 2014, 12月 14
効率化という点に集約されるだろうね。先生の話を聞く余裕がないという点もそうだろうし、場合によっては先生が先に消してしまって、全部写しきれない事態もありうる。そういう事態も避けられる。また、誰かにノートのコピーをしてあげるときも画像をメールで送る方が多分楽です。
板書のスマホでの撮影の何が悪いのか? 書くことが勉強ではない。 もっとも、先生が書いてる中で、撮影するというのは失礼だとは思う。 そもそも、データの共有やプリント配るというのでいいのでは? 書くことに集中して、内容が分からないのも本末転倒だし。
— 先天性持病と付き合うこだわり生活 (@lifeisgame920) 2014, 12月 14
そうなんですよね。スタジオで泉谷さんが言っていた書くことが勉強ってのは、全く同意できない。板書ってのは、あくまでも勉強をするための手段であって、目的ではないはず。私に言わせてみれば、学生時代を振り返ってみてノートの必要性はほとんどない。必要性を感じたシーンがあるとすれば、それは大学時代の教科書がない授業のみ。教科書がないとテスト勉強をするときに参考にするものがなく、どうしようもないのだけど、教科書があるのなら、それを見れば全て事足りていたと思います。はっきり言ってしまうと、教科書がある授業はノートをとる意味なんてほぼなかったと思う。実際、ノートをどれだけ頑張ってとっていた科目もテスト勉強でノートを参考にした記憶はない。私の場合は、教科書を見た方が明らかに勉強がしやすかったし、しれで良い点数もとっていた。それはノートのまとめ方が下手だからとか言われそうだから、下手なら尚更ノート以外に頼った方が良いじゃないか。ノート以外で結果を出せているのなら余計に。別にノートのまとめ方が上手くなろうが、そういう努力をしないでも良い状況が発生しているのなら、それをあえてする意味は分からない。
また、上記のツイートでもあるけど、そもそも板書自体がいらない。板書する内容が特別必要なモノならば、先生が最初からその内容をプリントして配るとかした方が良い。それをしないというのであれば、紙がもったいないか、泉谷さん同様に板書すること自体を勉強という認識があるからか?だと思う。松本さんは、「スマホで撮影することで、見たいときにいつでも見られるというメリットはある」と言っていたけど、それもあると思う。ノートって、学校に行くときにしか持ち歩かないと思うけど、スマホはどんなときでも持ち歩くし、どこでも見ようと思えば見られるから、普段から勉強しやすい状況を作るってのもあると思うんですよね。ノートに写したって、それだけ勉強が十分なわけじゃない。その場で理解できるというのはありえないと思う。テストで点数をとるためには、後で復習をしないといけないし、勉強で最も大切なのはこの復習だと思う。その復習のしやすさがスマホ軍配に上がるのならば、スマホを批判できる余地は限りなく少ないと思う。
また、別の角度から書くことで頭に入るとか言うけど、それははっきり言って人によりけりだと思う。私もそう思っていた時代があったけど、単純に暗記のみの科目の場合、書いて覚えた方が明らかに非効率だと思ったのです。それは大学受験の日本史の勉強をしているときに顕著だったんだけど、書いて覚えるってのは机に座って、鉛筆とノートが必要になるから、いつでもどこでもできるわけじゃない。私は日本史の勉強は書いて覚えるということは全くといっていいほどやっていない。日本史の勉強の時には毎回、参考書をひたすら読んでいた。それはベッドの上に横になりながらでもできるし、勉強ダルいなと思っているときでも、参考書を読むくらいならなんとかできる。机に座って書いて勉強するというのは、多分そういう気持ちのときは絶対にやれないと思う。それで結局、日本史の偏差値は平均70くらいあったので、結果的に正解だったんでしょう。だから、スマホに書いたものを後で見返すだけでも十分勉強になる人はいるのだから、ノートを自分の手で書かないからダメなんてことはおかしい。書いて覚えるのが向いている人もいるとは思うけど、それが全てのわけないし、自分がそうだったからというので、その方法を誰にでも強要するのは、それこそ教育の観点から間違っていると思う。勉強のやり方には正解はないはず。勉強のやり方も多様であって良いじゃないか。昔ながらのやり方に固執することもそうだけど、1つの自分の正しいと思ったやり方を周りにも強要するところがまた「老害」と言われそうですよ。
問題点を強いて挙げるならば、このツイートでも言及されているけど、撮影されている教授の気持ちの問題があるかもしれない。大勢がみんなスマホでやっていたら記者会見みたいで気分は悪いかもしれないけど、それが当たり前になれば気にする人もいなくなるのかな?という気はしないでもない。それを気にするなら、プリントとして配るか、データとして配って、各自見るか、プリントするか選べばいい。それくらいのデジタルデータは余裕でできるはず。授業の効率化というのはいくらでもできるはずなのに、それを教える側がしないから、それに不満を抱いた学生や生徒が自らそれを実行したというだけの話のように思うのです。学生や生徒らがそれが良いと思ってやっている行為ならば、本人たちにとって合理性がある以上、非難できる余地はほとんどないと思います。

なぜ日本の大学生は、世界でいちばん勉強しないのか?
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