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障がい者や被災者に暖かく、生活保護受給者、ホームレス等には冷たい日本人

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生活保護受給者と震災による被災者はどちらも、国によって金銭的、またはそれ以外の恩恵を受けている人たちです。ただ、この両者の人たちは世間から見る目が全く違う。それはみんなが感じていることではないでしょうか?全体的な傾向としては、生活保護受給者は嫌われ、排除され、国もどちらかというと煙たがっている存在でしょう。しかし、被災者は多くの同情に囲まれ、国も積極的に支援を行っている。私はこの両者の人たちは事情は異なるものの、社会的弱者というカテゴリーに収まる人としてほぼ同等の立場の人たちだと思います。しかし、世間や国からの目や対応というのは、かなり違ったものになっている。温度差がまるで違う。それはどうしてなのでしょうか?ずっと疑問でした。一見すると両者は全く違う人たちに思えるかもしれませんが、私は意外に共通点が多いのではないか?と思うのです。そういう人たちを、なぜ国民の多くは、国は区別するのでしょうか?

 

1番の理由は、「自己責任」を押し付けられるか?どうかという点です。多分、この国の人たちはあまり社会的弱者に関心がないか、あまり救う気がないのではないか?と思うのです。そういう意味では被災者を何とも思っていない人間もいると思います。しかし、世の中の空気的に生活保護受給者と同じような反応をすると、それこそ自分の人間性を疑われるような、そういう風潮があるため、何も言わないでいるような人もいると思います。そのときに出てくる言葉が「自己責任」という言葉ですね。これは要は「そういう状況を招いたのはあなたたち自身のせいでしょう?なら、その後始末も自分たちでやってよ!」という意味合いが込められているのではないか?と思います。生活保護受給者とか、後はホームレスの人たちにもこういう言葉がよく投げかけられます。ただ、被災した人たち、何らかの自然災害で被災した社会的弱者の人たちには、こういうことを言う人は限りなく少ない。というか思っていても言っちゃいけないみたいな雰囲気を感じている人もいるのではないか?と思うのです。要は自然災害っていう、人間の努力でいかんともしがたい事象により、社会的弱者に陥ってしまった人に自己責任は押し付けられないのでしょう。自然災害を食い止めるのは難しいし、実際自然災害を食い止める義務を負うのは、国民というよりは国や自治体でしょうから、尚更被災した人に「自己責任」と言う余地が残されていないのです。

 

ただ、今でいえば広島で土砂災害が凄いみたいで、亡くなっている方も数十人という規模にまでなっていますよね。これに関して、昨日家族の間でちょっと話題になったことで、「山の近くに住むのは危険ってことだよ」ということが父親の口から言われました。これは事実だと思います。少なくとも、都心と比べたら山間が近くにある場所の方が自然災害の猛威を食らうリスクは間違いなく高いと思います。先ほど、自然災害の場合には自己責任を押し付けづらい、または押し付けてはいけない風潮があるということを言いましたが、そういう中でも自己責任を押し付ける余地を見出す人たちは少なからずいます。例えば、3年前の東日本大震災のときには、「あらかじめ地震が来たら大きな津波がくると十分予想できるような地域に住んでいる方が悪い」みたいなことを言っている人がいました。ネットで探すと、同様の意見がいくつか見つかると思います。これはどうでしょうか?実際、こういう意見に対して適切な反論がきていたか?というと、そうでもなかったと思います。

 

この自己責任論が適切か?どうかについては個人的には微妙なところだと思います。確かに津波が十分予想できる地域だったのは確かです。ただ、そういう地域に住んでいる人たちが、じゃあ全員津波の心配がないところに現実的移住しようと思えば、移住できたか?というキャパシティ等の物理的な問題もあります。また、ある程度そこで住み続けることを余儀なくされている面もあると思うのです。それは昔から続いてきた家業を簡単には捨てられないとか、あとは津波の心配がないところというと、当然家賃がその他の物価が高かったりして、そういう地域で毎日生活していけるのか?という経済事情の問題もあり、一概にこの自己責任論を肯定はできませんけど、全く間違っているともいえないと思うのです。ただ、逆にその他の社会的弱者については、自己責任論を突きつけるのが当たり前みたいな、なんの躊躇いもなくそういうことを平気で言えてしまう風潮があるのではないか?と思います。ただ、別の意味で平気でぶつけている人間もいて、それがホリエモンですね。彼は身体障害者に対して、同じようなことを言っていました。

 

ホリエモンは以前、身体障害者が会社で働くことは非効率だから、働かない方が(お金を与えてじっとしていてもらった方が)社会のためといった、そういった発言をしたことがあります。要するに、身体障害者だけに限らないが、世の中には働いている人間の中にも相対的に非効率な仕事しかできない人間というのがいるはずです。そういう人は排除して、もっと効率的な人間に働いてもらった方が良いのか?ロボットなどを導入するのか?代替論はどうなるのか?分からないが、そういった発言をして物議を醸しました。身体障害者に対する差別的発言ともとれるものですが、身体障害者はどちらかというと、空気的には被災者の側の人間で、そういう発言をしてはいけない的な空気がありますよね。ホリエモンの言っていることは、半分くらいは妥当かもしれないと感じています。しかし、それがいくら正論であったとしても、多分世の中の多くはそれは言うべきではないと思っている人が多いのではないか?と思います。しかし、それとは対照的に生活保護受給者やホームレス、ネットカフェ難民などの人たちは、そういう空気に守られることはあまりない。批判されがち、自己責任を押し付けられがちです。

 

これに関して言えば、すでにそういうことを平気で言う人が多いから、後に続く人も心理的なハードルもなく言えてしまう。「沈黙の螺旋仮説」の逆バージョン、別の言い方をすると「バンドワゴン効果」かな?と思います。でも、実際そういう人たちって、本当に自己責任なんですか?例えば、ネットカフェ難民を含むホームレスの人たちは家もないし、仕事もないし、という生活です。以前、関西学院大学の学生に「ネットカフェ難民になってしまう原因は個人と社会のどちらにあると思いますか?」アンケートをとったら、7~8割くらいの学生が個人と回答していた。という動画がYoutubeにアップされていて、それを閲覧しました。私がネットカフェ難民という言葉を知ったのが大学3年くらいなので、この世代の人たちにアンケートをとるのが適切か?どうかはちょっとアレなものの、彼らの意識の中で、こういう人たちは自己責任だ。という意識が多いのは間違いなさそうです。ただ、ここで問題なのは、個人と回答している学生は彼らの生活をどこまで知っているか?ってことです。自己責任を押し付けている人は、一体何を根拠に言っているのかな?と思うのです。

 

先ほどの話に戻ると、自然災害によって社会的弱者に陥ってしまった人は、自然災害という、人間がいかんともしがたい事象が原因なので、多く方はその原因をちゃんと認識できるし、そこに自己責任をつきつける余地があまりないからこそ、自己責任を押し付ける人がほぼいない。という話をしました。じゃあ、ホームレスとか、ネットカフェ難民とか、生活保護受給者の人たちが社会的弱者に陥った原因は何ですか?これ、答えられますか?普通に考えたら、そう容易に答えられるものじゃないと思います。というのも、それぞれで多分原因は微妙に異なるからです。要は、こういう人たちが社会的弱者に陥った瞬間を目撃できている人はまずいないので、彼らがそういう生活を強いられるようになった原因というのは、簡単には判別できないと思うのです。被災者の方は「自然災害」という明らかにどうにもしづらい原因によって、そういう状況になったのが誰の目から見ても分かります。でも、ホームレス、ネットカフェ難民、生活保護受給者の人たちが、そういう状況になった原因を私たちは確実には知らないはずです。原因が確実に分からないのなら、そもそもその原因が自己責任か?そうじゃないか?の区別も本来はできないということです。

 

原因が簡単には分からない。というか、人それぞれで違う。というのは多分事実でしょう。ただ、個人的には彼らがそういう状況になってしまうのは、関西学院大学の学生とは真逆の意見になりますが、社会の方が原因としては大きいと思いますよ。っていうか、当たり前のことをいうと、資本主義社会の中で、彼らのように経済的に明らかに困窮している弱者が生まれるのは当たり前なのです。相対的な経済的な弱者は100パー生まれる。国の政策によって、彼ら弱者の生活水準を向上させることはできるし、それが十分行われていたら、彼らは少なくともホームレスやネットカフェ難民をやらずに済んだ可能性もある。しかし、それが不十分だから、彼らのような存在は生まれる。それはもはや彼らの責任とは言えないでしょう。だって、国の経済政策を彼らは決められないのだから。それにこれは努力したから、してないから、とか、とかで片付けられる問題じゃない。この世にはいろいろなポストがあって、それらは数が決まっている。要は全員が同じだけの努力をすれば、同じポストにつけて、同じだけの給料が貰えて、同じだけの生活水準が保てるなんてことはないのです。そういう世の中になっているなら努力しなかった人間が悪いとも言えるかもしれないが、世の中の構成員が全員同じだけの努力しても、椅子とりゲームのように漏れる人が必ず出てくる。それは絶対に避けられないのです。努力をしても、しなくても漏れる人が必ず出てくるシステムの中で、実際に漏れた人は自己責任でしょうか?誰かは絶対に漏れるわけです。ホームレス、ネットカフェ難民、生活保護受給者等、彼らの中には絶対に努力をしていた人もいるはずです。でも、漏れてしまうんです。これを自己責任というのは酷だと思いますよ。

 

社会的弱者というカテゴリーの中でも、これだけ人を見る目が異なる。というのは個人的には凄い違和感とともに、不快感すら感じるほどです。以前、生活保護の話題に関連したアンケートで、「政府は社会的弱者を救う必要がない」と答えた人の割合が、アメリカを除く先進国の中でダントツの1位だったということが、ある2chまとめに載っていました。アメリカを除く日本以外の先進国では10%未満なのに対して、日本は約40%です。ちなみに超競争社会のアメリカですら30%くらいです。アメリカ以上に弱者は見捨てて構わないと思っている国民が多いってことになります。弱者を見捨てていいというならば、じゃあ当然身体障害者に関しても見捨てて良いという話になる。ホリエモンの言っていることに賛成しないといけなくなる。この4割の人たちはね。身体障害者を悪く言うことは、先ほど言ったように世の中の空気によって妨げられる。だから、国も健常者が全員働けていない段階で、企業に対して障がい者の雇用促進をしているわけです。国はそもそもどう思っているか?知らないが、身体障害者を支援している立場です。しかし、生活保護受給額などは引き下げの方向です。つまり、生活保護受給者はより過酷な状況に追いやっていますね。すでに存在している差別しても良い空気やしてはいけない空気に沿って、国も国民から批判されないように、機嫌を窺いながら政策を実行しているように見えてしまうのです。ある意味、生活保護受給者やホームレス、ネットカフェ難民らは国からも見放されている可能性もあるのですよ。誰も応援してくれない、彼らはそんな疎外感の中で生きないといけないのですか。

 

 

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