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「ソ連経済はなぜ失敗したのか?」←何でこんなすぐ論破されそうなこと言うの?(笑)

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ソ連経済って失敗したと思っている人が多いんですかね?これはアンケートなどをとらないと分からないかもしれませんが。でも、なんとなく世の中的には失敗したことになっている雰囲気ですよね。実際、ちょっと前に「ソ連経済はなぜ失敗したのか?」ということを話していた人がリアルでいたのです。その人は私の学生時代からの知り合いなんだけど、そんな彼に対して「〇〇(相手の名前)が考える失敗の基準ってなんすか?(笑)」って聞いてみたのです。すると、やっぱりという感じですけど、すぐに回答が来ない。明らかに頭で考えているんですよ。正直言って、この状況は想定済みです。というか、絶対にこうなるだろうなと思っていました。失敗の基準がこの人の頭の中に定まってないのに、この人はソ連経済は失敗したって断言したんです。おかしいですよね?法律がないのに、違法、合法の判断をしているようなものです。

 

相手の人は私のこの一言で、自分が無能であることを自覚してしまったみたいなのだが、この人とは濃い付き合いをしているわけでもないので、別に嫌われてもいいと思っていました。今回のケースで言えば、失敗の基準があるからこそ、その基準に照らして失敗したのか?そうじゃないのか?の判断をするのが妥当だと思います。つまり、この人は勘で失敗したと言っていたわけだ。失敗の明確な定義はないから、仮にこの人の中に自分なりの基準があったとしても、勘であることには変わりないと思うけど。ソ連経済が失敗したのか?それとも成功したのか?それはソ連経済のどこを見るか?によるでしょう。要するにソ連経済が失敗したと考えている人は、負の部分しか見ていない、または負の部分を中心にしか見ていないだけでは?と思えてきます。ある部分と別の対照的なある部分をともに観察するような、総合的な見方ができないんじゃないか?と思われる状況です。つまり、レッテルを使って表すと無能です。

 

一国の経済体制が成功なのか?失敗なのか?それを見極めるには、成功と失敗の定義が必要だが、それは各自の感情の問題の域を出ないでしょう。したがって、私から言わせれば、成功した、失敗した、どちらかを考えること自体が無駄だと思います。所詮はレッテルなので、それが成功だろうが、失敗だろうが、実際に起きた歴史そのものは一切変わらないのです。世の中には考えても意味がないことが多々あるわけです。よくあるのは「正解がない」とされる問題です。学校の道徳の授業が好きみたいだが、学校などでは正解がない問題を考えさせることがあるらしい。正解がない問題というのは、個人の観点からすれば、考える意義はあるかもしれない。自分にとって何が望ましいか?を考えることで、自分にとっての幸福を左右できるからだ。しかし、第3者視点に立ったうえで、正解がない問題を考えてもしょうがない。

 

例えば、昭和天皇に戦争に責任はあるのか?という問題は、まさに正解はないと思う。これに関しては、責任ってなんだ?責任の範囲はどこまでだ?が決まらないので、まずこの部分が各自の主観によって勝手に決められる。責任の定義が恣意的ならば、それ以降に導き出された考えも各自の価値観に沿ったものにしかならない。よって、この問題は正解が決まらず、正解がないのであれば考えることに意味はない。正解がない問題は、正解がないがゆえに、各自の回答の優劣を測ることができない。本来はこういう状況なので、採点もできないはずだが、道徳の授業などでは評価が決まるんでしょうね。正解がないってことは、どんな意見も平等に扱われるはずで、言ってしまえば答えは何でもいいとなる。責任がある、責任がない、どちらでもないなどの回答は全て同じ点数をつけるべきだ。そして、そんなの知らねーよ!という回答もOKのはずだ。どんな回答でもいいと言える以上、回答を出す意味すらないと思う。採点する側にとっては、何らかの形で優劣をつけないといけないので、やる意味があるというか、無理にでも採点をすれば、それによって学校としての責務が果たされるような雰囲気が生まれる。しかし、実際に考えている側にとってはマジで時間の無駄だと思う。

 

話は戻るけど、ソ連の経済が失敗したか?否か?というレッテルの話は、はっきり言って何も生まない。ソ連の経済を分析し、良かった部分は生かして、悪かった部分は反面教師にするなど、そういう捉え方をすることに意味はあると思う。とはいっても、それはほぼ政治家がやるべき事柄だが。しかし、ソ連経済を失敗と断罪して何の意味があるの?と思います。しかも一般人が。実際、失敗と捉える人は、そもそもソ連経済の良い面を見る気はないんだと思う。つまり、良い部分を探そうとすらしないと思うので、今後に生かせるヒントをみすみす見逃す可能性もあるわけだ。失敗と一蹴する人は、ソ連経済=失敗というレッテルによる図式が完成しているので、ソ連経済を評価する気がないのでしょう。評価できる面が探せば少なからずあるかもしれないのに。

 

物事は良い面と悪い面の両方があるのだから、良い、悪いに二分することは本来できないはずだ。しかし、主観によって、それをやりたがる人は非常に多い。それは特定の部分だけを見て、プラスか、マイナスか、どちらかの印象が無意識に頭に浮かんできてしまい、その印象こそが全てだと勝手に判断しているんだと思われる。すると、それとは反対の面を分析するチャンスを逸する可能性があり、非常にもったいないよねとなるのです。だから、人や物事を評価するときに、良い、悪いの2つの軸から行うのはやめるべきだと思う。思うけど、そういう状況はまず実現しないだろう。いわゆる感情論というのは、大多数の人間が行う本能的行動だと思うから。

 

どんな人やモノも良い面、悪い面の両方あるでいいのですよ。でも、人は何かを否定する際にレッテルに頼らざるを得ないんだろうなと思うのです。それは否定する対象に関して、具体的にどこがどうおかしいのか?などを説明する力を持っていないからです。そういう力がないと、その人は具体的に説明をすることができない。でも、自分の印象を頼りに善、または悪だと無意識のうちに判断した以上、その判断をスルーすることができない。自分の感覚をまともだと思いたい人は世の中にたくさんいますからね。だから、根拠を言えなくても、感覚のみで芽生えたその判断を実際に表明してしまうのです。そして、自分の印象だけで特定の人やモノに対する評価をするには、レッテルを使うしかないのです。

 

レッテルを使うと、根拠が一切なくても、とりあえず否定をしたという状況だけは実現できますから。なぜ否定できるの?という疑問は残りますが、とりあえず幼稚園児がやりそうな手法でも、否定をしたという事実は残るのです。これが彼らの自己満足につながるのでしょう。自己満足につながるのであれば、すでに満足しているので、根拠を添えて否定をする必要性が彼らに感じられない。そして、日本からは誹謗中傷が消えない。そういう分かりやすい構造ですね。でも、レッテルのみで評価をすると、冒頭の私の知り合いみたいに、そのレッテルを使った理由、基準を問われ、反論に困る人が出てきてしまうのです。今回の彼はその事実にさすがに気付いたんじゃないですか?(笑)レッテルで何かを評価をすることの脆さを。根拠をいちいち考えないと、自分を無能と認識する結果になってしまうと。でも、こういう記事を書いてるとさ、私ってレッテルをよく使う人間以上に、実はレッテル好きだよな(笑)と思えてきて、仕方ないんですよ。私もやっぱり日本人なんだなと思えてくるわけです。

 

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  • 作者:樋口裕一
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