就職しないで、ブロガーになった人のBlog

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死刑って、かなり優しさに溢れた刑罰に思えてくるんだけど?(笑)

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以前、「「犯罪者家族」という都合のいい括りをする日本人って本当に卑怯者だよ(笑) - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事でも紹介したが、私は「親愛なる僕へ殺意をこめて」という作品を読んでいた。2020年の11月くらいに単行本の11巻が発売し、それで完結した。主人公が二重人格であり、父親が殺人犯となっているが、冤罪なんじゃないか?という疑問を解決するために、調査をしていき、最終的にとんでもない真相にぶち当たるというストーリーだったと思う。ストーリーの途中からは、完全に父親は冤罪であるという前提で進んでいき、確か9巻か10巻でついに主人公は真犯人、つまりこの漫画の黒幕を見つける。主人公はいろいろな伝手を頼りながら、この真相にたどり着くのだが、主人公がそもそも黒幕を探していた目的は真犯人に復讐をすることだった。そして、真犯人に会いに行き、実際に殺そうとするものの、直前で躊躇う。それは主人公が、この真犯人が自分を殺そうとすることを望んでいるように感じたから。そこで殺すのをやめるのだ。

 

この真犯人は世間から受けた悪意の存在により、結果的に殺人犯になったのだが、その悪意と同じものを、殺そうとする瞬間に主人公は感じたと言う。主人公が真犯人から悪意を受け取り、それを継承していくことを真犯人は望んでいると。主人公はそう感じたと言っていたのだ。私はこのシーンを見て、ふと思った。というか、実は前から思っていた面もあったのだけど、なぜ人は復讐をする際に「殺人」を選ぼうとするのか?ということです。殺人が毎回選ばれているわけじゃないけど、復讐の手段として、最高峰のモノを殺人と考えている人は世の中に多数いると思う。正確に言えばそう思い込まされているということ。日本だと最高刑は死刑だからというのが大きいのか?殺すということが、罰として最も重い手段だと勝手に思い込まされているのだろう。でも、なぜだろう?復讐の手段として、恨みを晴らす手段として最も重いものは殺人だと考えている人、実際に殺人を選んでいる人は、それ以上の手段なんてないと無意識に考えていると思われる。しかし、殺人が復讐の手段の中で最も恨みを晴らすことができるとなぜ言えるのか?根拠はあるのだろうか?そんな部分を考えたことがある人なんていないと思う。人を殺すことの悪質性は、全て生きている人間の評価によるものだから。実際に殺された人間の感覚は考慮されない。

 

この漫画において、真犯人は過去の殺人事件の容疑者として捕まり、後に死刑判決を受けることとなる。主人公が殺さなくても、結局死ぬことになったわけだ。ただ、漫画のストーリーではそうなっても、現実では当然そうなるとは限らない。自分だけ真実を知っているが、それを客観的に証明する手段がない場合もある。その場合には法で裁けないならば、自分でさばくと、殺人に走るケースが実際にありえそう。でも、殺人って、私は超絶コスパが悪いと思っています。殺せば相手は死ぬわけだけど、死ぬということに一体何の意味があるのか?ということだ。死という要素に関して、人間はものすごいネガティブな印象を持っているし、かなり特別な感覚を抱くだろう。しかし、恨んでいる人間が死んだところで特別な感情があるのか?と思う。大切な人が亡くなったときには、相当な悲しみがありそうだが、死んでほしい人間が死んだところで当然悲しみはない。スッキリするとか、ざまあみろwくらいは思うのかもしれないけど、随分日常的な感情に思えてくる。実際、スッキリする、ざまあみろという感情は他の手段でも全然得られるはずだ。つまり、私の感覚からすると、殺人という手段は自己満足を得るにしても、あまりにもショボいものだと思っている。その代わり、刑罰はかなり重い方だ。正確に言えば、重い方だとされている。世の中的にはハイリスクローリターンな手段に思えてくるんですよね。そんな非合理的な手段を復讐として選ぼうとしている人は、フィクションの中だけではなく、現実でもいるはずだ。

 

そういう意味では、なぜ日本の最高刑は死刑なんだろう?とも思えてくるね。当然政治家だって、思考停止の状態で、死が最も刑罰としては重いものだろうと無意識に思っているのでしょう。死刑に処すということは、その人物は死に至り、それ以降は何の感覚もない状態になる。感覚がないということは苦痛も存在しないはずだ。苦痛がない状態は当然刑罰になりえない。ということは、死刑の刑罰としての機能は、当然死刑に処すまでに完了していないと説明がつかない。しかし、死刑を実行するまでに起きていることは、懲役刑と変わらない。強いて言うならば、いつ死刑を執行されるのか?分からないその恐怖心を日々味合わせることが罰と言うならば、まだしっくりくるが。でも、死刑にならなくても人間はいつか死ぬので、漠然とした死の不安はみんな抱えますよね。実際、日本の場合は死刑が確定しても、執行されるまでには10年とか、20年とか平気でかかる。それって、普通の囚人と変わらくね?と思う。人間がいつ死ぬか?は分からない。そのうちという漠然とした状況の中で生きている。漠然とした状況だからこそ、私たちは日々死を意識することは少ないわけだ。それは死刑囚も同じなんですよね。仮に執行されるとしても、日時があらかじめ決まっているわけじゃないし、どうせ当分先でしょ?と思える。死刑に処される恐怖心をそこまで抱えるだろうか?と思えてきます。

 

そして、実際に死刑当日を迎えたことを知った瞬間に関しても、死刑囚以外でも経験することじゃないか?とは思うがね。余命宣告とかはそれに近い。死刑の場合にはその当日にいきなり執行されるわけだが、それ自体はメリットもあるだろう。要するに恐怖心を抱える時間が短くて済むということだ。また、健康な状態で死ねるので、病気にかかって死ぬときのような肉体的苦痛がない。余命宣告の場合、漠然と死を意識している状態から、具体的に死を意識する状況に変わる。そして、その恐怖心は死ぬまで続く。また、時間の経過とともに身体は弱弱しくなっていき、肉体的苦痛も感じることになるのではないか?と思われます。死刑の方がマシだと思われる面は存分にあると思うのだ。こうして考えると、死刑って、何がどう刑罰になっているのか?マジで分からない。死というものは死刑囚に限らず、全員がいずれ経験するものだが、そのときの恐怖心や精神的苦痛、肉体的苦痛が和らぐ可能性が大いにあるわけだ。死そのものが人にメリットをもたらすことは普通にあると思う。そういう考えに至ることができない人間が死刑を極刑にしたのかもしれない。

 

私からすれば終身刑の方が刑罰としては重く感じますけどね。だからこそ、死刑になりたかったという死刑囚がたびたび出てくるんだと思いますよ。人間は本能で死を避けようとしてしまうが、死を求めている側面は少なからずある。それは死にメリットを感じてしまっているからだ。でも、長年の人類の歴史による遺伝子レベルの洗脳により、死は悪いことだと思い込まされている面があるため、積極的に死を選ぶことができない、選んではいけないと考える人はこの世に多くいるのでしょう。基本的に刑務所暮らしになると、自ら死を選ぶことができない状況に置かれる。個人的にはこれ自体は精神に対する拷問だと思いますが。だからこそ、終身刑は本当にこの世で1番辛い刑罰だと思う。現代では肉体に対する拷問はないという前提ですが。

 

そういう意味では、死刑廃止論とか非常にバカバカしく感じる。死刑って私は十分に恩恵を感じられる刑罰なので、終身刑と比べるとよっぽど温情があると思うんですよ。残酷さはほとんど感じられないです。人間はなぜか死というものに関して非常にネガティブな印象を抱く。それは死というもののネガティブな部分しか見ていないからだと思う。メリットがあるという発想がまずない。だから、死に対してネガティブな感情のみを無意識のうちに抱いてしまうのでしょう。死刑は終身刑と比較すればかなり顕著だけど、死刑にならずに生涯を終える多くの人たちの人生と比較しても、死刑って意外とメリットを感じさせる、随分優しい刑罰にしか私は思えないのよね(笑)見方によっては罰金刑とか、そのまま普通に生き続けることができる刑罰よりも軽いと思えてきます。それは罰金刑に処された人は、死刑による恩恵を受けることができないから。それ自体がデメリットもなりえるのです。人間であれば誰しもが経験する死に備わるデメリット部分を帳消しにするような、見方を変えると魅力が存在する刑罰に思えてきてしょうがない。

 

親愛なる僕へ殺意をこめて(11) (ヤングマガジンコミックス)

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  • 作者:井龍一,伊藤翔太
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