就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

「もし世の中から法律がなくなったら?」←多数派による俺ルールが代替するので心配ご無用です

「法律がなくなったらどうなるのか?」なんてことを考えている人もいるらしい。私に言わせれば、その前提がおかしいというか、法律がなくなる状況がありえないと思ってしまうのです。法律ってなんだ?国が作るルールだな。国が作るルールには法律という特別なレッテルが与えられるが、それ自体を特別視しないといけない理由は特にないと思う。法律もルールに過ぎないのだから。仮に今法律と呼んでいるものがこの世から消えたとしても、ルールに相当するものは残る。そして、国ではなく国民が国民を支配するような状況に代わるだけだろう。政治家と国民という違いはあるが、誰かが支配するという状況に関しても差はない。

 

たいていは国民の多数派によって容認される俺ルールが適用されることになるだろう。その俺ルールはときには野蛮な、残酷な内容を含むことになるかもしれないが、今の法律が野蛮じゃない、残酷じゃないとも言えないので、そこも結局変わらない。今ある法律がなくなったって、その後に社会に存在する支配的な俺ルールを法律と呼んだっていいわけだから、法律という呼び名に固執する理由もない。法律も俺ルールも、支配層が自分たちにとって都合のいい状況を被支配層に強要する行為に他ならない。俺ルールに反する人間には何らかの制裁が与えられる(いじめが行われる)ことになり、そこも今私たちが法律と呼んでいるものと大差ないのだ。結局、状況として何が変わったのか?という感覚になるんじゃないのか?と思う。

 

結局本質的な部分に注目すれば、法律(に相当するもの)はなくなりようがない。この世に生きる人間が数えられるほどに少なくなるような状況になれば、話は別かもしれないけど。また、何度も出しているこの俺ルールという存在は、法律よりも上位という考え方ができる。基本的にこの世に存在するすべての法律に賛同する、納得している人はほとんどいないだろう。そのため、ときには自己判断で法律を破る選択をする人間が出てくる。これは決して珍しいケースではないはず。つまり、各自の意識(無意識の場合も含む)において、優先順位としては法律よりも俺ルールの方が上なわけです。法律を守る状況は、ある意味俺ルールに沿っているから問題ないという認識なのです。俺ルールに沿う法律に関しては、俺ルールという基準に照らして問題ないので守っているのであれば、法律だからこそ守るという状況ではなくなっているわけです。

 

マナーという言葉が1番分かりやすい。法律で許容されている行為がマナー違反というレッテルを貼られ、非難される光景は日本ではお馴染み過ぎて見飽きたと言っていいレベルだが、これはまさに俺ルールが法律を凌駕している代表的なシーンだろう。法律という基準よりも、俺ルールを優先しないと、マナーという概念は成立しない。というか、正当性を見出しようがない。法律よりも社会の多数派が正しいと感じている価値観の方が、正しいと思っている人が多いんじゃないですか?みんな自分の感覚こそが正義だと、真っ当だと信じているのでしょう。他人の感覚よりも自分の感覚の方が正しいと、それは自分の感覚を信じる=自分の都合を常に優先できるからに他ならない。

 

そして、この俺ルールが消える状況もありえない。というのも、俺ルール自体は法律と同じで、多数派にとって都合のいい状況の強要だが、仮にAという俺ルールが社会の多くの人たちに受け入れられなくなったとしても、今度はAという俺ルールをやめろ!という俺ルールが支配的になるだけだ。Aがあった方が都合がよかった状況が、今度はAがなくなった方が都合がいい状況に変わるだけ。社会は常に多数派にとって都合のいい状況が優先される。Aに代わってBの俺ルールが生まれるというだけであり、この状況は延々と続くだろう。これは私たちが法律と呼んでいるもの同様で、新しい法律ができたり、廃止されたり、改正されたり、そういう歴史を重ねている中で、どの都合を社会が優先するか?という本質的な部分は一切変わらないのです。法律も俺ルールもマナーも呼び方を変えただけで、概念としてはほぼ変わらない。支配層が被支配層に強要する都合のいい決まり事であり、これは世の中がどうなっても存在し続けるだろう。

 

そういう意味では法律がなくなったとしても(自分たちに有利な俺ルールを適用できる多数派にとっては)構わないってことだ。私たちが法律と呼んでいるものが消えても、法律と変わらないものは存在し続けるから。私刑とか、自警団とか、自粛警察なんかが今以上に蔓延ることになるんじゃないかな?法律と称される存在があっても、なくても、社会の多数派にとって都合のいい状況こそが歓迎され、それがルール化していく。そして、都合がいいときにはそのルールを破る。そういう状況は法律があっても、なくても一緒でしょう。人間が特定のエリア内で集団生活をするような状況が続くならば、この仕組み自体は特に変化しない。そして、特定の層が自分たちの都合を優先するがゆえに、それによって不利益を被る層の出現や彼らが俺ルールを破り、他者に損害をもたらす状況についても今後も変わらないだろう。

 

私は以前から何度も言っているが、平和が理想とは全く思わない。人間(他の動物も同様だけど)は常に争うのが自然であり、平和なんて状況は異常である。そして、その平和という概念は特定の層にとって都合のいい状況の実現という意味に他ならない。平和を実現したいならば、平和を乱す側に譲歩すればいいだけ。そうすれば割と簡単に実現できるが、それをしない理由は自分たちが損したくないから。譲歩するってことは、既得権益などを捨てないといけないわけです。平和を望む人間は、あくまでも今の都合のいい状況を維持し、その状況を壊そうとする側を押さえつけようとする姿勢なわけだ。簡単に言えば、「俺らは得意し続けたいから、お前は損し続けろ。その状況に関して文句を言うな。暴れたりするな」ということ。つまり、平和というのは非常に自己中な概念なんですよ。現状の法律などのルールによって恩恵を受けている、満足できる側が、現状の法律などのルールによって不利益を被っている側を虐げる状況とも言えるだろうか?ただ、私はその自己中が悪いとは一切思いませんがね。人間なんてみんな自己中なのが当たり前なので。そもそもの話をすれば、いいとか、悪いとか、そんな概念にも興味がないけど。

 

現実において、法律を含めたルールがなくなる状況に最も近いシチュエーションってなんだ?と言えば、震災直後だと思う。とはいっても、震度7クラスの地震が来る、または津波が襲ってくるような状況に限定するけど。少なくともその地域においては、ある種ルールのようなものが消えるというか、機能しない光景となるだろう。警察などがまともに働ける状況ではない可能性があるから。よって、世間に明るみにならないような犯罪が横行するかもしれない。特定の地域が大混乱になる、身動きがとれなくなるような状況があれば、それをチャンスと捉える人もいるわけです。私は実際にそういう内容の漫画とかを見てきているので、その想像ができてしまうというか、その想像に至ってしまう面がどうしてもあります。現実において、今後このような可能性が最も高そうなシチュエーション、ガチで世の中が無秩序になりそうな場面というのは、大きな地震でしょう。そのときに人々はどんな形でその地域を治めていくのか?そこはみどころかもしれません。

 

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同志社大と立命館大のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違い

同志社大学と立命館大学はどっちが上か?その難易度に関してチェックしていきましょう。両者の偏差値やレベルの違いを調べれば、同志社大学と立命館大学の難しさにおける優劣が判明するのではないか?と思います。一般的には同志社大学の方が偏差値が高い、難しいというイメージはありそうですけど、実際はどうなのか?について見ていきましょう。ともに頭いいと言える大学ですから、差は小さいのではないか?と思われますが。また、同志社大学と立命館大学のイメージや雰囲気の比較もしていきます。それぞれのキャンパスライフの違いも把握したうえで、どっちがいいか?を考えていくといいと思います。

 

・同志社大学と立命館大学の学部ごとの偏差値の違いは?

同志社大学と立命館大学の偏差値やレベルをチェックしていきますけど、そのうえでどっちが上か?について見ていきます。今回は河合塾の個別日程の偏差値を使用していきます。まずは文学部ですが、同志社大学が60.0で、立命館大学が55.0~60.0です。文学部は同志社大学の方が難易度は上です。次は法学部ですけど、同志社大学が60.0で、立命館大学が57.5です。法学部も同志社大学の方がレベルは高いでしょう。そして、経済学部はどうか?というと、同志社大学が60.0で、立命館大学が57.5です。経済学部も同志社大学の方が難しい状況です。経営学部(商学部)については、同志社大学が62.5で、立命館大学が57.5です。経営学部(商学部)も同志社大学の方が偏差値は高くなっています。あとは国際系の学部をチェックしていきますが、同志社大学のグローバル地域文化学部が60.0~62.5で、グローバル・コミュニケーション学部が60.0~62.5です。立命館大学の国際関係学部は60.0~65.0です。国際系の学部は同じくらいの難易度と言えると思います。文系学部に関しては、どっちが上か?に関しては歴然といった感じでしょうか?

 

では、理系学部についても見ておきましょう。まずは理工学部ですが、同志社大学が55.0~60.0で、立命館大学が50.0~55.0です。理工学部については、同志社大学の方が難しいと言えると思います。あとはスポーツ健康科学部ですけど、同志社大学が55.0で、立命館大学が55.0です。スポーツ健康科学部は両者同じくらいのレベルと評価できます。それ以外では生命医科学部(生命科学部)が同じような系統かもしれません。同志社大学が55.0~57.5で、立命館大学が52.5~55.0です。生命医科学部(生命科学部)は同志社大学の方が難易度は上でしょう。こうして見ると、理系についても同志社大学の方がレベルは難しい状況だと思います。文系、理系総合でも、同志社大学と立命館大学はどっちが上か?頭いいか?と言えば、同志社大学になると思うのです。そして、両者の大学のイメージや雰囲気の違いも理解しておきましょう。キャンパスライフの雰囲気などを理解しながら、どっちがいいか?を考えていくといいと思います。

 

・同志社大学と立命館大学のイメージや雰囲気の違いは?

同志社大学と立命館大学のイメージや雰囲気の違いについてチェックしていきたいと思います。両者のキャンパスの立地条件の違いを特に見ていきましょう。同志社大学は京都府京都市と京田辺市にあります。京都市の方はそれなりに栄えている状況ではありますが、京田辺市はそうではないと言える可能性があります。基本的にはメインキャンパスは京都市の今出川キャンパスになるでしょう。一方の立命館大学は京都府京都市、滋賀県草津市、大阪府茨木市にキャンパスがあります。つまり、同志社大学と同じような位置にキャンパスが存在しているのですが、それ以外にも滋賀県と大阪府にあり、より広範囲に存在していると言えるでしょう。こちらもメインキャンパスは京都市の衣笠キャンパスになります。それぞれ学部ごとに通うキャンパスが異なるので、そこは理解しておく必要があります。同志社大学と立命館大学はともに京都府京都市のキャンパスは都会的ですが、それ以外となると雰囲気がやや異なるので、そこも含めてどっちがいいか?を考えるといいと思います。ここは個人の好みが関係するので、一概にどちらが望ましいとは言えません。

 

・同志社大学と立命館大学では就職における違いはある?

同志社大学と立命館大学において、就職の違いは存在するのか?というと、現実的にはあまり考えづらいですが、全く同じとも言い難いかもしれません。ただ、どちらも頭いいと言えるランクの大学なので、違いがあったとしても、それはもはや違いなのか?と言えるレベルとも言えるでしょうか?でも、関関同立は基本的には就職における扱いはほぼ同じですが、同志社大学だけはやや別格の扱いをする会社が存在する可能性はあります。実際、偏差値やレベルに関しては同志社大学が他の3つの大学を凌駕している感じもするため、そのイメージから同志社大学は立命館大学を含めて3つの大学よりも評価を意図的に高めているケースはあるかもしれません。これは想像の話ではありますけど。そういう意味では、就職に関して同志社大学と立命館大学はどっちがいいか?というと、同志社大学を選んだ方がいいと言える余地はあります。ただ、仮に差があったとしても、結果を変えるほどの差か?と言われると、微妙かもしれないです。

 

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「この世に魔法や魔女は存在しない」と言い切れる根拠は何1つありません

この世に魔法は存在するか?と言えば、NOと答える人が多いのだろうが、彼らは何を根拠にそう言っているのだろうか?見たことがないから?あるわけないから?科学で証明できないから?魔法の定義もよく分からないけど、魔法が存在しない証明はできません。例えば、現実において殺人事件が起き、その犯人が全く分からない、特定できないとします。密室状態みたいな不可能犯罪(あくまでも他殺は確定)と言えるような状況があったときに、魔法を使ってやったんじゃないの?という発想をすれば、周囲からバカにされるだろうが、それが間違いである根拠なんかない。むしろそう考えれば自然というか、とりあえず辻褄は合うだろう。通常の人間には不可能なことをやるのが魔法なんだから。つまり、魔法を使う魔女のような存在が犯人だと結論づけてしまえば、一件落着なわけです。

 

そんな状況を描いたのが「うみねこのなく頃に」という作品であり、これは以前アニメで視聴したのだが、基本的にはミステリーのようなストーリーです。ある一族の中で毎回(パラレルワールド形式になっている)一定人数が惨殺され、その犯人は誰なのか?を主人公が一人称視点とは違う角度から、第三者視点のような角度から探っていく作品です。ただ、この殺人事件には自らやったと名乗り出る人物がいる。それが魔女であり、彼女は魔法を使ってやったと主張する。状況としては、魔法でも使わない限り説明ができないと言えるものだから、この魔女は嘘をついていると否定するのは難しい。主人公は基本的に魔女も魔法も存在しないと考えてる側の人間だから、魔法以外で一連の殺人事件が起きる、起こせる理屈を探していかないといけない。その結末がどうなるのか?結局は犯人は魔女なのか?そうじゃないのか?が焦点になるわけですが、アニメだけ見ていても結局ネタバレというか、真相部分はよく分からないのです。で、私は全話見終わった後にネタバレサイトを見たわけですが、とりあえず犯人と言える存在は分かったし、真相も大分掴めたと思う。ただ、いろいろな意味で予想とは全く違う内容で驚いた。以下はややネタバレを含んでいるので、見たい人だけ見てください↓

 

 

 

 

 

 

 

 

普通に考えたらさ、不可能犯罪に思える状況を起こした犯人が魔女でした!トリックなんかありません!だって魔法だから!じゃつまらないし、ミステリーとして成立していないから、そんなわけないでしょ?何かしらトリックがあるんだろ?と誰もが思うものの、結果的に言えば、一連の殺人事件の真相は魔法に近かった感じです。少なくとも真相部分は現実ではまず再現が不可能であり、魔法と言った言葉で表現しても差し支えないんじゃ?と思えてきました。犯人の名前は指摘できるものの、その名前は一体誰を表しているのか?別途考察しないといけない。そういうややこしい面を持っています。そのややこしい部分にこそ、個人的には魔法のような感覚を覚えてしまうわけですが。また、この作品は何が現実なのか?が非常に重要と言え、ネタバレサイトを見ないと分かりづらいです。そういう意味では、虚構の中で虚構を描いているという珍しい構図もあって、現実と虚構の区別という視点がないと、自力で真相にはたどり着けないでしょう。舞台が1986年と1998年の2つ出てくるというのがポイントかもしれない。

 

現実の殺人事件の捜査では、不可能犯罪と言える状況が仮にあったとき、そのトリックが全く解明できないときには迷宮入りといった状況を迎えるのだろう。人間業ではないときに、人間とは違う(能力を持った)存在を犯人と考えることは絶対にしないはずだ。でも、こんな例は魔女や魔法だけじゃない。人間は先入観で勝手な思い込みをしている。フィクションで描かれるミステリーは、そんな人間の思い込みをトリックの題材にしていることが多いように思う。そんなわけがない!こうに違いない!そういった思い込みは、実は何の根拠もないことが多いのではないか?自分の感覚や世間の常識をもとに、勝手に判断しているのではないか?そういう意味では、いろいろな可能性を探った方が、いろいろなヒントが見つかり、望ましい状況を実現しやすくなるかもしれない。ときには非現実的な発想を信じてみるのもいいかもしれない。魔女や魔法を信じて生きた方が、人生が豊かになるかもしれないですね。

 

この世に魔法がないとか、魔女はいないという証明はできない。そもそも魔法ってなんなのか?魔女ってどんな存在なのか?もイマイチよく分からないというか、明確な定義が確定しない面がありそうなので、これが魔法だ、魔女だと言ってしまえばそれまでな気はするけど。逆に言えば、現実には存在しえない不思議な力、存在こそが魔法、魔女と定義しているかもしれないし、仮にそうならば、魔法や魔女はフィクションの世界を除いてこの世に存在しないで正しい。いろいろと考えを巡らせるとキリがないけど、このうみねこのなく頃にという作品は、主人公と魔女の論戦が1つのみどころになっており、それぞれ魔法や魔女の存在を一切否定する、魔法や魔女の可能性を肯定させるためにそれぞれが何を考え、どんな論法で相手を攻めるのか?が面白い部分かな?は思います。現実の論戦でも応用できる部分があるかもしれません。原作はゲームなので、そっちも知っておくといいと思います。

 

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ネットカフェ難民って言うけど、賃貸住みよりも合理的な選択じゃね?

「ネットカフェ難民」という言葉に対して、私はそれほど悪いイメージがない。むしろそういう生活もありなんじゃ?と思っているくらいです。そもそもを言うと、ネットカフェに住む人たち、寝泊まりする人たちに対して、こういう特別な名称で呼ぶ意味が分からんのですよ。私からすれば、賃貸で家を借りている人と何が違うのか?と思います。ネットカフェの場合、たいていは時間帯でお金を払って、特定の部屋を専有します。だから、人によっては夜寝るときだけ利用するなんてこともできます。この場合、毎日利用したとしても、月に3~4万円あれば十分です。都会のど真ん中であっても。賃貸の場合には都会のど真ん中であれば、家賃はそれだけ高くなってしまいます。また、会社で仕事をしていれば、平日はほとんどの時間は家にいないわけです。物を大して所有していない人なら、ロッカーを借りられるネットカフェでいいんじゃ?とも思えてくるのです。ネットカフェによっては、月契約ができるところもあり、そういうケースでは益々賃貸の家に住むケースとの違いが分からない。

 

ネットカフェって審査ないので、保証人とかいらないし、敷金礼金もいりません。水道費、光熱費、通信費、飲み物代もろもろタダであり、場所によってはソフトクリームやカレーライス、牛丼などが無料で食べ放題のところもあるみたいね。パソコンに関しては購入費もいらないでずっと使い続けられます。さらに漫画やDVDなどの娯楽もタダです。通常賃貸の家に住んでいる人がかけているであろう費用が大分カットできます。さらに掃除などもしなくていいし、ご近所付き合いもいらない。メリットの宝庫だな(笑)としか思えません。賃貸の家に住むケースと比較して、デメリットがあるとすれば、占有できるスペースが狭い(探せばネットカフェにもワンルーム以上に相当する部屋はある)、プライバシーが確保しづらい(料金はやや高いけど個室を選べば問題ない)、騒音が気になるかもしれない(料金はやや高いけど個室を選べば問題ない)、住所がない(住民票を登録できるネットカフェも割とある)などでしょうか?パッと思いつくのはこれくらいかな?昔と比べて、コンビニっていろいろな機能を果たすようになったじゃないですか?ネットカフェもそれと同じような状況になっていて、すごい便利な場所だよなって感じに思えてきます。どんどん住むことが前提の機能が備わってきているのです。

 

実際、私は大学生のときにネットカフェを1回利用したことがあります。オフ会に参加して盛り上がりすぎて、終電がなくなってしまったときに、その場で仲良くなった人たち数人とネットカフェ泊まることになったんです。オフ会の場所は秋葉原だったから、そういった施設は結構あって、その中の1つを利用したわけですが、感想を言わせてもらえれば、むちゃくちゃ快適でした。深夜1時過ぎくらいから朝の5時くらいまでいたのかな?たった数時間程度でしたけど、就寝することもせず、コナンの漫画を読みながら、ニコニコ動画を視聴して過ごしていた記憶があります。もちろんフリードリンクなんで、飲み物を何度もお替りしていました。スペース的には1.5畳くらいだったかな?多くがイメージする狭いタイプの部屋でしたが、そんな部分は全く気にならなかったと思います。

 

というか、ネットカフェって学生寮とかに近いんじゃないの?と思う。私は寮生活をしたことが1度もないので、イメージになってしまうけれども、学生寮って不特定多数の人たちが同じ建物内で過ごして、共有スペースとかを使うわけですよね。普通の家みたいに個別の部屋が用意されているケースもあると思うんだけど、今では少数派なのかもしれないが、相部屋みたいな場合もあるわけじゃないですか?相部屋だとプライバシーの問題はネットカフェ未満ですし、1人あたりの占有スペースはかなり狭そうですよね。学生寮に住んでいる人たちの中には、ネットカフェ難民以下の劣悪な環境というケースもあると思うのだが、彼らは社会的にあまり問題視されません。彼らは学生だから、働いていないからというのもあるかもしれないけど。でも、ネットカフェ難民は働いているのが普通である年齢層だとしても、それが彼らに特別なレッテルを付与しないといけない理由にはならないでしょう。

 

>ネットカフェはインターネット、ゲーム、マンガ本、軽食、適度な物音、便利な立地など、若者に必要なインフラが詰まった“快適な装置”であると言えなくもない。しかし、ネットカフェに暮らしている以上、ホームレス状態であることに変わりはなく、派遣やバイト切り、体調不良など、ちょっとしたきっかけによって、路上生活へ突入していってしまう。

 

上記の文章は「月収15万円でもネットカフェ難民——自覚ないまま若者のホームレス化が進む | Business Insider Japan」に載っていたものだが、ここに書いてあることははっきり言って意味不明です。ネットカフェに暮らしている人をホームレス状態と呼んでいるが、問題は社会的にホームレス扱いか?どうかではないのです。すでに話したように、ネットカフェ難民でも住所を得られる場合があるし、賃貸と比較してメリットもあるわけ。賃貸住みの人がホームレスと呼ばれないのに、ネットカフェに住む人たちをホームレス呼ばわりしないといけない理由は何?と思う。で、ホームレス状態というレッテルを貼られることの何が問題なの?ちょっとしたことで路上生活に転落してしまうと書いてあるが、それはネットカフェに住んでいるか?どうかに関係ないでしょう。賃貸の家に住んでいる人、または会社の寮とかに住んでいる人は路上生活に陥る可能性は0なの?ネットカフェで暮らしている人たちよりも可能性が低いってなんで断言できるの?路上生活に陥るか?どうかは収入の問題が大きいはずだ。収入が一定程度確保できれば、最低でもネットカフェは利用できるわけだから、路上生活にはならない。ってことは、問題は収入が途絶える可能性ですよね。

 

強いて言うならば、ネットカフェ生活をしていると住所がない場合もあるため、仕事を探すときには不利と言えるかもしれない。住所が得られるところに住めばいいって話でもあるのだが、住所不定扱いのネットカフェを利用する人がいないわけではないだろう。でも、ネットカフェに住んでいればパソコンが常に自由に使える。しかも購入費も通信費もいらない。賃貸に住んでいる人に関しては、パソコンを持っていない人が割といるのでは?と思う。最近の若い人たちはスマホは持っていてもパソコンは持っていないというケースが結構あるらしい。そして、さらに言われているのが、「パソコンは生産者にもなれるが、スマホは消費者にしかなれない」というもの。これはいろいろな人たちが口にしています。パソコンで仕事はしやすいが、スマホだと制限が大きくてきついらしいのだ。スマホでビジネスができないわけではないが、スマホで不自由なくできる仕事は大分限られると思う。実際、マルチタスクに長けたパソコンはビジネスにかなり向いていると思う。

 

ネットカフェで暮らしていれば、パソコンを使って収入を得ることがしやすい。クラウドソーシングサイトを使えば、大したスキルがなくても月に数万円程度の収入は十分に得られるだろう。ただ、パソコンがない人たちはそういったチャンスが乏しい。で、パソコンを使うことができない環境にあるのはどちらですか?と言えば、間違いなく賃貸住みの人たちなんです。パソコンが置いていないネットカフェってほぼないと思うのだが、パソコンが家にない賃貸住み人は結構いるだろうと思う。さらに言えば、賃貸住みの人たちの中にはスマホすら持てない人もいるかもしれないです。スマホって高いじゃないですか?で、定期的に壊れるわけですよ。収入次第では、新しいスマホを買えないって人もいるはずなんです。スマホさえ持てない人も現実にはいますよ。でも、ネットカフェに住んでいれば、パソコンが壊れたら店側が新しいの用意してくれますからね。ネットカフェ難民の人たちは一般的な労働ができない場合には、パソコンを使って収入を得られる可能性が十分あるが、賃貸住みでパソコンを持っていない人たちは、一般的な労働ができない場合、一気に路上生活に突入する可能性、そしてネットカフェにすら泊まれない可能性が高まります。問題の本質は収入の安定性(自分がやっている仕事それ自体)であって、どこに住んでいるか?ではないのだが、そんな当たり前の部分すら見極められない人がいるんだなという印象です。

 

そんな感じで、収入が途絶える可能性に関しては、ネットカフェに住んでいる人たちも賃貸に住んでいる人たちもどっちもどっちだと思うのですが。収入を得るという手段に関して、一般的な労働しか頭にない人たちは、引用した文章を書いた筆者みたいに、ネットカフェで暮らす人たちの方が収入が途絶えやすい=路上生活に陥りやすいと思うのかもしれないけどね。世の中の多くの人たちは、一人暮らしをするときに賃貸か?ネットカフェか?という検討はまずしないと思う。それは無意識のうちに候補から除外しているから。ネットカフェに住むという状況は負け組の人たちがやる行為だみたいな先入観によるイメージがあるんじゃないですか?ネットカフェと賃貸のどっちが恵まれているか?コスパがいいか?に関しては、比較対象によるので何とも言えない面はあるけれども、そんなところに住むならネットカフェの方が優れているでしょ?って思える賃貸物件は世の中に普通にあるはず。

 

長期的に住むと印象が変わる可能性はあるけれども、ネットカフェという場所に対して私はネガティブなイメージは一切ありません。寝ることを想定するならば、多少なりとも広いスペースの部屋にするだろうけど、それなりの部屋さえ確保できれば、快適な生活は十分に送れそうだなって印象です。ネットカフェ難民って言葉があるってことは、社会は彼らを賃貸物件に住む人よりも、絶対に下に見ているんですよ。でも、彼らが下である理由ってなんかあるの?と思う。優劣を比べられる基準なんかいくらでもあるから、私が本気を出せば、賃貸物件よりもネットカフェ生活の方が優れている可能性がある面をいくらでも出せそうな気がします。ネットカフェ難民という、自分たちよりも下に思える存在を見つけながら(そのように思い込みながら)生きた方が幸せというのであれば、それは同意してあげますけど。

 

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千葉大と埼玉大のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違いはある?

千葉大学と埼玉大学の偏差値やレベルはどっちが上でしょうか?それぞれの難易度を比較すると、ある程度の状況が掴めると思います。両者ともにかなり難易度が高く、頭いいと言えるレベルだとは思いますけど、厳密に言えばどっちが上なのか?について、気になる人がいるはずです。千葉大学と埼玉大学の偏差値の違いについてまずチェックしていきましょう。また、両者のイメージや雰囲気の比較もしていきたいと思います。千葉大学と埼玉大学それぞれのキャンパスライフの雰囲気などの違いを調べて、そのうえでどっちがいいか?について判断をしていくといいのではないでしょうか?

 

・千葉大学と埼玉大学の学部ごとの偏差値の違いは?

千葉大学と埼玉大学の学部ごとの偏差値の違いをチェックしていきます。そういった面から、どっちが上か?について考えていきましょう。今回は河合塾の偏差値を参考にしていきます。まずは教育学部からですが、千葉大学が50.0~57.5で、埼玉大学が47.5~55.0です。教育学部については千葉大学の方が難易度は高いです。次は経済学部(法政経学部)ですけど、千葉大学が57.5で、埼玉大学が55.0です。経済学部(法政経学部)についても千葉大学の方がレベルは上になります。理系についても見ていきたいと思います。理学部に関しては、千葉大学が55.0~62.5で、埼玉大学が52.5~57.5です。理学部も千葉大学の方が偏差値は高い状況です。最後に工学部はどうか?というと、千葉大学が55.0~65.0で、埼玉大学が47.5~55.0です。工学部もやはり千葉大学の方が難しいと評価できます。千葉大学と埼玉大学はどっちが上か?と言えば、全体的に千葉大学という扱いになるでしょう。

 

文系と理系を比較してみた結果、千葉大学と埼玉大学はどっちが上か?というと、千葉大学になる可能性が高い気はしますが、どちらも有名国立大学であり、頭いいと言える学歴に相当するはずなので、両者の差はそこまで気にすべき点ではないと思います。あくまでも難易度を比較したら、こういう結果になったというだけなので、そこは覚えておいてほしいです。そして、偏差値やレベルとは別の部分も把握しておくべきです。それぞれの大学のイメージや雰囲気の違いも知っておきましょう。千葉大学と埼玉大学のキャンパスの立地条件の比較をしていきたいと思います。キャンパスライフの雰囲気にかかわる部分となるため、こういう部分も理解したうえで、どっちがいいか?の判断をしていくといいと思います。

 

・千葉大学と埼玉大学のイメージや雰囲気の違いは?

千葉大学と埼玉大学のイメージや雰囲気の違いはどうでしょうか?特に重要なのはキャンパスの立地条件になります。したがって、この点について詳しく見ていきましょう。まず千葉大学は千葉県千葉市、松戸市、柏市といった場所にキャンパスがあります。学部ごとに異なっていますけど、千葉市はともかく、それ以外は郊外というイメージでしょうか?千葉市も郊外と言える面はありそうですけど、県内ではまだ都会的な雰囲気が感じられます。一方の埼玉大学は埼玉県さいたま市にあります。こちらはすべての学部が同じ場所で学ぶ状況です。さらにエリアはさいたま市になるため、県内では割と都会的な場所であると評価できるでしょう。場所それぞれの違いもありますけど、キャンパスが学部ごとに異なっているか?そうではないか?の違いは大きいです。こういった点を比較していくと、両者の違いが明確になるかもしれません。キャンパスの立地条件も含めて、千葉大学と埼玉大学はどっちがいいか?に関して考えていきましょう。

 

・千葉大学と埼玉大学では就職における違いはある?

千葉大学と埼玉大学において、就職に関する違いはあるのでしょうか?両者ともに有名国立大学であり、難易度は非常に高いです。そのため、人事としては千葉大学と埼玉大学はともに頭いいというイメージを持っていると思われます。でも、両者は偏差値やレベルが全く同じというわけではありません。微妙に違いは存在しています。文系も理系も千葉大学の方がやや難しい状況にあるため、そこが評価に関係してくる可能性はあるでしょう。とはいっても、千葉大学と埼玉大学の偏差値やレベルはそこまで大きなものではないので、評価に致命的な差が出るとは思えません。就職において、千葉大学と埼玉大学はどっちがおすすめか?と言えば、千葉大学になるかもしれませんが、実際は結果を左右するほどの状況を生むとはとても思えないのです。就活は大学名よりは面接でどの程度評価されるか?の方がかなり重要です。したがって、結局はこういう部分でどれくらいの実力を備えることができるか?にこだわるべきであり、それこそが就活におめる結果を大きく左右する要素になると思います。就活においては、大学名よりも重視すべき点が普通に存在するということです。

 

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日本人はいつまで「賭博罪」という国の欺瞞に踊らされ続けるのか?

有名予備校の武田塾の塾長、有名カードショップ晴れる屋の代表取締役らが賭けポーカーをやっていたという事実が明るみになり、違法賭博をしていたというニュースが世間に流れたわけですが、このニュースに関しては知らない人も多いかもしれない。私はたまたま何かのきっかけで知ったんだけどね。賭博罪(正式には賭博及び富くじに関する罪)に該当する可能性が高いと思われる行為をしたなんてニュースは、実際たまに聞かれるけど、そういう報道を見るたびに私は思う。で、彼らが賭博を行った結果、なんか問題が起きたのか?と(笑)賭博罪で逮捕されたとか、有罪になったとか、その可能性のある行為が発覚したというニュースは、その行為に対して感情論による非難が及ぶことが多い。でも、それで終わりですよ。賭博の何が問題か?彼らは社会にどんな迷惑をかけたのか?などは全く議論されないっすよね。犯罪に該当する可能性がある行為をしたという事実のみで非難されているわけですが、賭博行為に仮に何の問題もなければ、賭博罪という刑法の規定自体が意味不明という評価になるじゃないですか?実際、今回の一件で、何の問題が起きたって言うのでしょうか?

 

今回のケースはそもそも彼らが逮捕されたわけではない、違法賭博なんじゃないの?という指摘を受けて、彼らがそうだと認めただけ。法律に関してプロではない人間が指摘して、同じくプロではない人間が認めたのみで、実際に犯罪に該当しているのか?も不明な段階だ。本来であれば、最低でも逮捕されてから違法な行為という指摘をすべきな気もするが、この問題は今回の記事にはあまり関係がないので、とりあえずスルーする。今回の焦点は賭博罪に該当しかねない行為をした結果、社会において何の問題が生じたのか?という話です。賭博罪が存在する理由、別の言い方をすれば賭博が違法である理由は過去の裁判の判例(賭博はなぜ違法?身近な賭博罪とオンラインカジノの行方 | 弁護士費用保険の教科書)で以下のように述べられています。

 

>昭和25年の最高裁の判例は、賭博を処罰する根拠として、賭博が「諸国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめる」こと、「健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法二七条一項参照)を害する」こと、「暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発」すること、そして「国民経済の機能に重大な障害を与える恐れ」があること、を挙げています。(昭和25年11月22日、最高裁)。

 

上記を読むと分かってもらえると思いますが、何の因果関係も示されていないただの感情論が羅列されています。髪の毛を染めた生徒がいると、クラスの風紀が乱れるという、実体のない謎の理屈を平然と主張するその辺の教師と変わらない話ですよね。これは裁判官の問題というよりは、法律を作った国会議員の問題も含まれるけれども、どんな大人がこんな訳の分からない理屈を思いつくんですか?(笑)と思う。賭博を行うと怠惰や浪費の風潮が出来上がると言っているが、特定の人たちが賭博を行ったら、なんで社会全体にそんな風潮が蔓延するって言えるの?仮に蔓延したとしても、その場合には賭博行為が行われた事実を報道するマスゴミが1番の悪ですよね?だって、報道しなければ誰も何も知らないもん。賭博という概念すら知らなかった人もいるんじゃない?蔓延のしようがないじゃないですか?そして、勤労の美風ってなんすか?美風自体が何を指しているのか?も不明ですし、美風を損なうという理屈が一切明示されていないので、ワケワカメとしか評価できません。そして、副次的犯罪を誘発する根拠もありません。あなたの妄想ですか?(笑)としか反応できない状況です。国民経済への重大な障害って具体的に何?レッテルで誤魔化す卑怯者の典型例?としか思えませんが?

 

こんな感じで、賭博行為を行うと、こういう問題が生じるんだという事例を裁判所は過去に示したわけですが、そもそも具体的な話がほぼなく、因果関係も不明であり、個人的にはバカなの?という感想しか出てきません。ただ、上記の引用が載っているページには以下のことも書かれています。

 

>ただし、この最高裁判断が下された昭和25年当時はまだ敗戦から間もなく、現代と比べて社会が混乱していた時代でした。

賭ける額が大きくなるほど上記のように懸念されたトラブルが起きる可能性も高くなることを考えると、法律によって賭博行為自体を規制する必要があったのかもしれません(旧刑法185条が施行されたのは明治15年でした)。

 

上記の文章を書いた人は、この判例は当時が戦後間もない時期であり、そういった社会背景も踏まえたうえで示されたものだと考えているようです。つまり、この人は戦後間もない時期の賭博罪の根拠を現代まで用いているのは、さすがに時代遅れじゃないか?と感じているように思えます。実際、「当時は規制する必要があったのかもしれない」とあるので、裏を返せば今はもう規制する必要がないというニュアンスにも聞こえます。昭和25年に示された、賭博罪の違法理由については、現代でも特に変わっておらず、説明のされ方は今でも同じみたいです。でも、こういった問題が起きるから、賭博は違法なんだ!と言われても、その問題が起きたという事実が全く確認できないですし、実際にそんな問題が起きた!と誰かが騒いでいる様子も見えないですし、賭博罪の存在意義は本当に謎としか言いようがないと思います。

 

そして、賭博の話になると、なぜ競馬や競輪などのギャンブルはOKなのか?という疑問がわく人がいると思うが、これは法律で例外にしているからです。特別法が存在していることにより、国が管轄するギャンブルを行っても合法という扱いなのです。でも、冷静に考えておかしいでしょう。国が管轄しているギャンブルを行った場合には、上記で引用した判例で述べられている、賭博が違法である理由に該当する状況はなぜ発生しないと言えるの?例えば、副次的な犯罪が起きるからこそ、賭博は違法であるとされているが、競馬や競輪などに端を発する犯罪は1件も起きていないって言うの?1件でも起きていたら、副次的な犯罪を誘発したと見なされ、公営ギャンブルを合法に扱うことが不可能に近くなりますけど?探せば絶対に見つかりますよね。本当に賭博罪って謎めいた概念だな(笑)としか思えないんですわ。

 

賭博罪は戦後直後は上記の引用した判例にあるような理由で違法扱いされていたのだが、現代では実は違うんじゃないか?と私は思っています。戦後直後の判例が非常に都合がいいから、国はそれを違法な理由として踏襲しているだけじゃないのか?と。つまり、現代において、賭博行為が違法扱いされている理由って、本当は別のところにある気がします。要するに、ギャンブルのような行為は国が独占したいという意思があるんじゃないか?と思えるのです。実際、競馬や競輪などの公営ギャンブルは国庫にとっての重要な収入源になっているみたいです。つまり、こういった公営ギャンブル以外の賭け事をやる人が増えると、国の収入が減ってしまうわけです。だから、ギャンブルをやるなら国に収入として入ってくるものだけにしろ!と法律で定めているのです。ギャンブルは本来悪くないが、だからといって完全に合法にすると、国の収入が減って困るので、国が認めたもの以外は違法としているならば、ある意味辻褄が合いますよ。謎めいた理屈で賭博を違法扱いしている理由が、これですっきりします。端的に言えば、賭博は悪くないが、国が甘い汁を吸い続けたいので、そういうワガママで賭博は違法扱いになっているのでしょう。この状況で賭博行為をした人たちをバッシングしないといけない理由って何かあるんですか?ネットで調べてみると、私と同じ考えの人がちらほら見つかりますね。国の欺瞞に気付いている人は気付いているんでしょう。

 

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東京都の都道府県庁所在地=「東京」って、マジで意味不明すぎるでしょ(笑)

東京都の都道府県庁所在地はどこなのか?こんな疑問について考えたことがある人もいるかもしれません。正解は「東京」らしい。ただ、これが絶対的な正解か?と言うと、そうではない可能性もあるのだが。とりあえず東京が有力とされている風潮も存在しているみたい。。ただ、東京の都庁所在地が東京って、すごい違和感を覚える人もいるのではないか?なぜ都庁所在地が東京なのか?その理由については、「東京都の県庁(都庁)所在地が東京っておかしくない? | ハルメクWEB」から引用させてもらいます。

 

>東京都の県庁所在地が「東京」と表記されている理由が、東京都政策企画局のサイトで解説されているのを見つけました。

都道府県庁は、条例で所在地を定めるよう地方自治法で決められているそうです。それは東京都も例外でなく「東京都庁の位置を定める条例」により、都庁の所在地は「東京都新宿区西新宿二丁目」と定められています。

なぜ「東京都の県庁所在地は東京」という認識が広がったかについては諸説ありますが、東京都政策企画局では二つの理由を挙げています。

1つ目の理由は現在東京23区のある地域が、昭和18年までは東京市と呼ばれていたことに由来するというもの。

2つ目の理由は、学校などで使用されている地図上の表記が「東京」になっているから。この背景には、国土地理院の発行する50万分の一の地図には「市町村の名称はすべて表示する」「都道府県庁の位置は◎で表示する」という決まりがあります。しかし都庁の所在地である新宿区は市町村ではありません。そのため、便宜上の総称として「東京」という表示をしたものが広がったのではないかと考えられているそうです。

なるほど、確かにそう考えると納得できる理由ですよね。いろいろと調べているうちに、都庁にも興味が湧いてきちゃいました。見学で訪れるにはどのようにすれば良いのでしょうか?

 

ここには到底納得できない理由しか載っていない。これを読むと、都庁所在地に関して、公式では「東京」ではないらしい。しかし、「東京」という風潮にはなっているみたいなのだ。その理由の1つには、学校で使用されている地図において、都庁所在地が東京と明記されているからとなっている。私が小学生の頃に習った記憶では「東京」ではなく「新宿区」だったような気がしないでもないけど、少なくとも今は東京になっているのかな?この部分を読むと、国土地理院が発行する地図においては、市町村をすべて記すこと、そして都道府県庁は必ず記すこと、この2つがルール化されているらしい。そうなると、新宿区は市町村ではないため、こういった地図において、東京の都庁所在地を新宿区とすることはできず、便宜上東京としている。という説明は一見すると納得できる余地はあるかもしれないが、冷静に考えてみるとおかしいでしょう。

 

だって、上記のルールによると市町村はすべて明記するとなっているが、それは区を明記してはいけない理由にはなりません。つまり、東京だけは市町村ではなく(市町村も明記していいのだが)、区を明記すればいいのですよ。東京の場合、市町村よりも23区の方が存在感や影響力は間違いなく大きいですよね?その東京において23区を明記せず、市町村だけを記載する意味ってなんなんすか?(笑)つまり、東京都は特別区という特殊なエリアが存在する都道府県であり、そこは例外扱いでいいじゃないですか?そもそも都庁所在地=東京という表記が、他の46都道府県と比べて明らかに例外なんだから、例外自体は許されているわけでしょう?だったら、もっと根本的な部分から例外扱いしなさいよ。東京だけでは市町村ではなく、区を記すというやり方ができない理由があるのでしょうか?

 

さらに言えば、もっと大きな問題があるのです。それは都庁所在地=東京という情報に一体何の価値があるのか?という話です。都道府県庁所在地という概念があるということは、それらの所在地を知ることに意味がある、知るべきと言えるケースが存在するという前提があるはずです。知って何の得や意味もないならば、都道府県庁所在地という概念は必要ありません。つまり、国土地理院が発行する地図に、そんな情報を載せる必要性もないわけです。例えば、神奈川県の県庁所在地は横浜市であるとなれば、神奈川県庁は横浜市にあるんだ?と誰もが思えます。仮に神奈川県庁に用事があるようなときには、横浜市内にあるのね?と思い、横浜市内に絞って具体的な場所を特定することになるでしょう。ただ、都庁が東京にあるという情報は、何の利便性を提供しているの?(笑)都庁が東京にあるというのは、都庁所在地が何であるか?を知る以前にみんな知ってますよね?この状況で、改めて都庁所在地=東京の情報に何の価値があるんですか?「東京の都道府県庁所在地ってどこなんですか?」→「ん?東京だけど?」という会話に何の意味があるんですか?(笑)時間の無駄ですよね?

 

東京の都道府県庁所在地=新宿区だったら、範囲が大分絞れているので、意味は大いにあるでしょう。都庁所在地=東京と、とりあえず国土地理院が発行する地図には載っているらしいのですが、その地図を作った人たちは、何を考えてそう記したんでしょうね?その情報を得た人がどこでその情報を活用するとか、どのように利便性を実感するとか、そういう想像はしなかったんですかね?実際、国土地理院が発行する地図以外では、「新宿区」と記載されているものもあるらしい。ネットで調べると、小学生向けの地図には実際に新宿区と載っているものが確認できる。私が子供の頃に新宿区と習ったのは、そういう地図を学校で使っていたからなのかもしれない。都庁所在地が東京という発想は、私にとってはありえないものであり、何のメリットがあってそのような扱いにしたのか?記載をしたのか?マジで当事者に聞いてみたい。

 

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